2020/05/11 のログ
アントワーヌ > 父を亡くしたばかりの若き当主として、墓参には定期的に訪れていた。
携えてくるのは決まって、屋敷の庭で咲く薔薇の類であり、
今宵も墓石の前には白い薔薇の花束がひとつ、そぼ降る雨に濡れている。
けれど今や、其れを携えてきた己自身も、すっかり雨の洗礼を浴びてしまって、
髪も服も、俯き加減の蒼白い横顔も、聊か異彩を放って見えるやも知れず。

其れが麗しの貴婦人でもあれば未だしも、一見したところ男性であるのだから、
本来、他者からの興味は然程引かぬものの筈だった。
傘を差す人影が視界の隅に映り込んだ、此方も取り立てて声も掛けず、視線も向けず、
其の儘通り過ぎる筈の――――然し。

ふ、と、頭上から降り注ぐ雨雫が黒い影に遮られる。
ほぼ同時、傍らから掛けられた声に、反射的に向けたのは、やや瞠目気味の眼差しと、
虚を突かれて強張った白い貌。
けれど其れは、瞬きひとつ、ふたつの間に柔らかく解け、
当たり障りの無い、穏やかな微笑が白皙を彩ることに。

「――――此れは御親切に、……ですが、こんな親切は、
 何処ぞの美しいお嬢さんになさるのが正解、なのでは?」

私では貴殿に、何の得にもなりますまい、等と。
返す声音は落ち着いて、僅かな稚気を含んで響く。
―――傘を差しかけた相手の隠した意図に、少なくとも今は、気づいた様子も無く。

ルシュ・アシド > 振り返る面差しは少しばかり警戒を乗せていたが、
表情はやがて緩み、差し向けた傘を退けることはしなかった。

ジェラード伯と言えばつい先日、当主の急死により代替わりをしたばかりだと、
貴族の間で噂にならない日はない。
実父を亡くし、墓前で悲嘆に暮れているのではと思っていたが、
返された言葉には意外にも戯れが混じっている。
男は少し息を呑んだが、すぐにくつりと喉を鳴らして笑った。

「これはこれは。あなたのような美しい方にそのようなことを言われては、街中の娘が隠れてしまいますよ」

世辞だと流されることはわかっていたが、嘘を告げたわけでもなかった。
眼前の青年が纏うのは、陶器のような白い肌に薄紅の唇。
水色の瞳には豊かなまつ毛が彩られ、少年と少女の間のような、どこか危うささえ覚える可憐さを秘めている。

「失礼ながら、ご子息の――いえ、ご当主のジェラード伯爵でいらっしゃいますね」

そう言うと男は眉を寄せ、悲哀の笑みを演じた。
胸に片手を当て、心痛の面持ちで優しく語り掛ける。

「お父君のことは何と申せばよいか……本当に残念でございました。殿下のご婚礼を誰よりも楽しみにしていらしたでしょうに」

アントワーヌ > 此の王都に於いて、異邦人も、彼等の血を引く容貌も、珍しいものでは無い。
けれども月明かりすら望めぬ夜の墓所、ともすれば闇に紛れがちな視界の中で、
振り仰いだ男の容貌は、其れを彩る艶めいた表情と相俟って、ひどく魅惑的に映った。
――――其れだけに、浮かべた微笑と軽口の奥で、声を掛けられた当初とはまた別の、
ささやかな警戒心が芽生えてもいたが。
そんなことはおくびにも出さず、吐息めいた笑み声を混ぜて緩く首を振り、

「其れは正しく、夜目、遠目、傘の内――――という、昔から言われているあれでしょうね。
 明るい所で御覧になれば、私など只の生意気な若造ですよ」

軽く胸元に添えた右手は、苦労を知らぬ繊細な白さ。
けれど其れも、貴族の男なら珍しくも無いものである筈。
無理をして男らしさを取り繕うより、自然にしていた方が疑われ難い、と、
己は既に、充分過ぎる程学んだ身であった。

相手の口から己の家名が飛び出してきたことに、ほんの一瞬、
また軽く目を見開いてみせたが―――己が佇む其の場所に、佇む墓石が教えたのだろう。
ええ、と緩く首肯で応じ、

「私も、突然の事でしたので随分驚きましたが、…………あの、失礼ですが、」

成る程、己の名から父の死、婚礼の噂にまで、直ぐに思考が及ぶ者も一定数は居るだろう。
然し、微笑む唇の形は其の儘に、己の中で相手に対する警戒心は、ひっそりと一段階上げられていた。

「申し訳無い、見ての通りの若輩ゆえ、まだまだ物知らずで、
 ………宜しければ、貴殿の御名前を伺えますか?
 もしや、父と生前、御付き合いがあった、のでしょうか」

もしも父と個人的に友誼を結んでいる相手ならば、其れなりの対応というものもある。
そうで無いとしても、己の事情をある程度知っている相手の名前と顔は、
記憶に残しておきたいのが本音だった。

ルシュ・アシド > 噂通りの年の頃であり、このような時間に墓前を訪れていること、細い指に嵌められた権威を示す指輪。
そして何より、幼き頃より磨かれてきたであろう、凛とした佇まい――。
彼が墓下で眠る男の嫡男であろうことは容易に察しがついた。
想定外だったのはその見目の麗しさ、語り口から伝う聡明さだろうか。

控えめに名を問われ、男は二重の瞳を細めた。
喜びを示すよう口角を引き上げ、大仰に礼を取る。

「失礼致しました。
 私はルシュ・アシド。ジャミール商会という小さな商いをしております。
 何分名家の方々より御贔屓を頂いておりますので、お名前を拝聴する機会も多く。
 ご無礼をお許しください」

そう言い、胸の内ポケットから取り出した小さな紙切れを彼へと差し出した。
銀の箔押しのなされたカードには氏名と連絡先が書いてある。

「お父君には生前、大変良くして頂きまして……。
 今後も私共で何かお力になれることがございましたら、是非に。
 ささやかながら気を紛らわすものもございましょう」

伯爵家ともなれば取引も多いはずだ。
過去自分のような男と一度や二度、交流があったか否かを判断するのも難しいだろう。
ここは縁があったことにするのが得策だろう。

言葉を交わすうち、急に雨足が強くなる。
男は困ったように肩をすくめ、自分と少し色味の異なる美しい瞳を覗き込んだ。

「お引止めして申し訳ございません。馬車までお送りしましょう。
 ――濡れてしまいます。こちらへ」

そう言うと傘の中で引き寄せようと彼の肩へ手を伸ばした。

アントワーヌ > 男が名乗った其の瞬間、自らの身分を、職業を口にした瞬間。
もしかすると己は、彼の思惑にまんまと嵌ってしまったのでは、と、
そう感じたのは考え過ぎ、警戒し過ぎだったろうか。

けれども結果として、彼は己に名を教え、商人として顔を繋ぎ、
ごくごく自然な流れで差し出された名刺は、己の手に収まることになる。
雨に濡れぬよう留意しつつ、軽く掲げてみた其の紙片に綴られた名と、
人好きのする笑みを浮かべた彼の顔とをそっと見比べて、
己もまた、双眸を柔らかく細めてみせ。

「ああ、………貴殿が、ジャミール商会の。
 存じております、私の知人が以前、素晴らしく上質のルビーを御用意頂いたとか」

洒落者で知られる友人が、意中の姫に贈った見事な紅玉、
相手が其れを商った男だと知れば、同時に其の友人から聞いた幾つかの噂が、
数珠繋ぎに頭へ蘇って来るも――――其れ等は殆どが、
同じ男としての妬み、嫉みが塗り籠められたものとも聞こえ。
ともあれ、受け取った名刺はすっと懐へ滑らせて、

「喪中ですので、派手な事は暫く御預けなのですが、
 ……確か、貴殿の店では茶葉も扱っておられるのでしたよね?
 宜しければ近いうち、幾つか見繕ってきては頂けませんか」

そんな誘いを投げた理由は、社交辞令半分、好奇心半分といったところ。
父が贔屓にしていた業者の一人であるならば、無碍には出来ぬ、というのもあるが、
ほんの少し、此の男に個人的な興味が湧いていた所為もある。

―――――だから、だろうか。
男の腕が肩へ触れるのを、引き寄せられるのを、受容してしまったのは。
そうして触れれば、見た目以上に華奢な体格であると気づかれるかも知れない。
けれども、勿論、咄嗟に振り解くような真似は出来なかった。
怪しまれるような事は、極力避けねばならない身、ゆえ。
己はひとつの傘の下、男に肩を抱かれて、こそばゆげな微笑を浮かべてみせるより無く。

済みません、有難う、―――――そう、囁くような低い声音で伝えたが、
男の掌の下で、肩先はどうしても強張り気味に。
馬車までの道程が、己にはきっと、ひどく長く感じられる筈―――――。

ご案内:「王都マグメール 富裕地区 墓所」からアントワーヌさんが去りました。
ルシュ・アシド > 差し出した名刺が迷うことなく彼の懐に収まって、安堵が小さく胸に広がった。
今宵の目的は果たされたと思って良いだろう。
そればかりか、相手方から茶葉の提案がなされて、
顔は穏やかな笑みを崩さぬまま、内心でぐっと拳を握った。

「ありがとうございます。それは是非とも――」

突如として雨粒を吹き付けるかのような空模様は、出会いの吉兆を示すものか、果たして。
今はその手で引き寄せた若き当主の正体に気付かぬまま、共に出口へと連れ立って行くのだった――。

ご案内:「王都マグメール 富裕地区 墓所」からルシュ・アシドさんが去りました。