2025/09/21 のログ
ご案内:「街はずれの湖の畔 夜」に夜宵さんが現れました。
■夜宵 > 夜の帳が静かに降りていた。
街の灯は遠く、ここには静かに草木を揺らす風と、
それが運ぶ水音しかない。
――湖の畔。
木々の間から覗く月が、しんと張り詰めた水面に浮かぶ。
ゆらり、ゆらりと。まるで誰かの吐息のように揺れては、元に戻る。
湖面の匂い。夜の草の匂い。
少し湿った空気が、夜宵の髪をゆるりと解き撫でていく。
祓刀を傍らに携え、水辺に腰を下ろし、膝を抱えて月を見上げる。
足元には夜の露が降り、草がすこし冷たい。
それでも構わず、彼女はその場に身体を預ける。
「……あのときも、月が綺麗だった」
ふ、と瞼を閉じる。
想い馳せるのは、何時かの記憶であり、残響――
■夜宵 > ――草を踏む音も、獣の鳴き声すらも遠い。
すべてが、静寂という薄衣を纏っているようだった。
視線の先には、水面に浮かぶ月。
湖の呼気のような、淡いゆらぎの中で、
金色は揺れながらも、消えずにそこに在った。
夜宵は、そっと吐息をこぼす。
「……綺麗だなあ」
少年めいた口調で、誰に言うでもないその鈴音声は、
すぐ傍の水面に溶けるように吸い込まれて、消えていった。
草をしならせて座り直し、白い指先を、そっと足袋に這わす。
履物を脱ぐ動作はひどく静かで、丁寧だった。
片足ずつ、足袋を脱ぎ、それを傍らに並べ置く。
露に濡れた地面が、じわりと足の裏に冷たく沁みる。
夜宵は何も言わず、足先を水へ向けて伸ばしていった。
拡がる波紋は、水面を撫でて――浮かぶ金色が、ゆるりと形を変える。
■夜宵 > ひたりと。
水面に触れた肌が、音を立てた。
目許の紫紺の色を眇めては、
「……ん、ちょっとだけ冷たい、かな」
――厭ではない。
むしろ、この冷たさが心地よかった。
脚が、少しずつ水中へと沈んでいく。
衣を膝まで払い、脹脛の中ほどまで沈めると、
波紋がより広がって――足首を愛撫するように水が絡んだ。
ぱしゃり。
…湖の水は澄んでいて、
水底の小石が月の光でぼんやりと照らされていた。
夜宵は、両膝を抱えたまま頬をのせ、
目を細めて水面の月を見つめる。
静かな月。動かない湖。
女の表情もまた、浮世ではなくどこか遠いものを見ているような色が宿る。
■夜宵 > 「…ねえ、まだ拗ねてるの?」
傍らの祓刀に呼びかける。
水音の中に溶けていくような問いかけ。
――返事は、ない。
風も、気配も、沈黙したままだった。
だから、自分の足を抱くようにして膝に顔を埋める。
「……こうしてると、昔を思い出すよ。
あの泉にいた頃も……夜は、いつもこうだった」
肌に触れる水が、どこか懐かしくて、
今となっては、もう取り戻せないものだと女は知っていた。
それでも――
その冷たさの中に、確かに「自分」が在るような気がして、
夜宵は目を閉じる。
――そう。熱が無ければ、冷たさは生まれないのだから。
風が優しく通り過ぎた。
ひとりでも静けさの中に、彼女は佇んでいた。
■夜宵 > 水気を纏った脚が、水面より出でる。
指先だけ冷たく揺れる波紋へ滑らせては、遊ばせるように揺らがした。
弱弱しい波紋を重ねるごとに、水面の月が割れて、
歪んで――また一つに戻る。
ふと、足先を止めた。
辺りは声もなく、音も何も聞こえない。
ただ、そこに在るだけの、夜宵。
膝を抱いたまま、額をのせる。
長い睫毛が静かに伏せられて、月の光がその白い頬を撫でていった。
「もう、何十年も経ったのに……
私は、こうしているんだよ。
湖の月を見て、ひとりで、何も変わらず」
その声は、水面の月さえ震わせそうなほど、ちいさくて儚く。
「……それでいいと思ってた。
けどたまに、怖くなるんだ。
このまま、誰にも覚えられないまま、
忘れられて、終わっていくんじゃないかって――」
■夜宵 > 言葉が止まる。
息が、かすかに詰まる。けれど涙は流れない。
「……君は、忘れないでくれる?」
祓刀へ問いかけるような声。
けれど、風も、水も、ただ沈黙で応えるばかりだった。
『―――――』
夜宵は微笑んだ。
小さく、小さく――自分すらも気づけないほどの、笑みが、自然と。
「ふふ……そう、だね。君は、忘れないよね。
たとえひとの姿を持たなくても――君は、私の傍にいる」
そっと、足を水から引き上げる。
雫が脹脛を伝たって、草の上にぽたりと落ちた。
静かに立ち上がれば、足元に残る水跡と濃い色を作る土色。
濡れた足で草を踏んで、わずかに冷たい土を感じながら、天を仰いだ。
■夜宵 > 水面を見つめる。
穏やかな波と共に、金色の輪郭が揺れた。
――月は心の奥底に沈んだ記憶を想い起させてくれる。
やがて、天には雲が流れ、覆い隠せば朧月。
遺されたのは、澄んだ水面に映るのは白い脚、濡れた肌、草を踏みしめる影。
「……もう、行かなくちゃ」
小さな声でそう呟くと、女は湖から背を向け、
刀を佩刀し直し、履物を手にする。
濡れた足を拭うこともなく、静かに草を踏みしめる。
その歩みは、迷いなく――けれどどこか名残惜しげに。
風が、後ろ髪を引くように吹いた。
振り返ることはなかった。それでも、風の中に残る月明かりの気配に、
ほんのわずか、夜宵の背が擽られた。
袖が揺れ、裾が舞う。
■夜宵 > ――女はやがて木々の合間へと消えていった。
音もなく、気配も薄れ、
最初から――そこに誰もいなかったかのように。
なれど水面には、彼女の座っていた場所にだけ、
波紋がまだ微かに残っていた。
そして――月が、少しだけ、滲んで揺れた。
それはまるで、
見送る者が送る、静かな別離のようだった。
ご案内:「街はずれの湖の畔 夜」から夜宵さんが去りました。