2025/09/07 のログ
■マドレーヌ > 「…大事なお勤めなのは良くわかるのですけど、本当に体を大切にしないと…ダメですよ?」
心底、憂わしい眼差しで見ている。
本当に、どちらが患者なのか、という趣。
お互い、信じてついてくるお客様を背負っている身。
もしも倒れてしまっては、代わりはいるようで、いないのだ。
命に比べれば、居眠りくらいは安いものだと彼女は思う。
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本日の診察にはいる。
彼女は前回の診察からの日々をしばらく脳裏で振り返る。
「……そうですね。かなり、働きました。身も心も使う仕事ですし、お客様が多いので…」
何度か問診を受けてきたけれど、自分の稼業は背徳的ともされるもの。
いくら心正しくあろうとしても、道徳に照らせば少し目を伏せる。
少々無理もしているので、魔法かポーションで回復ができればと、彼女は希望した。
清楚な装いの下は、数多の人の欲望を集める体が隠れている。
しかし、これは命と共に差し出すサービスの器。
だから、オフの日は普通の人と同じように、一般庶民の装いになる。
色気を見せることもなく、わずかな所作に胸をつく一抹の香気が漂うばかり。
「だって…お客様の思いは、断れませんもの。いかがでしょう…?」
処方か術は受けられるだろうか、と目が訴えている。
もしブライト先生が、以前からの問診で彼女の仕事を知っていたら、「思いは断れない」という美辞が、肉体的位は時にどれほど負担であるか、思いを致せるかもしれない。
■ブライト > 「本当だね……。こんなに心配してくれてるんだから、気持ちを無駄にせずしっかり気を付けるよ」
助手の一人もいない、自分の存在が全てとなればちょっとやそっと の疲れを無視してしまう。
心配そうに見つめる姿に、申し訳なさそうに眉が下がりながらにこやかさを崩さず返す男。
先生のおめめ、真っ黒によごれてるー と子供に茶化されるのも、いつまでも笑いごとには出来ない。
ムリを続ければ本当に大事になってしまいそう……休む勇気の大切さを、しみじみと再認識させられた。
「なるほど……休むに休めない状況もあっただろうね……。此処に来るまで、随分頑張ったんだろう」
彼女がどんな仕事をしており、どのような労苦を乗り越えて日々生活しているのかは十分に想像がつく。
まずは、相談に来てくれてよかった。倒れた後であれば、ますます大掛かりな治療が必要になる。
彼女の希望は……回復。恐らく、持ち直せばまたいつものようにたくさんの客を相手取り、身を粉にして働くのが見える。
「断れない……そうだね。ボクも、こういう仕事をしているから君の気持ちは痛いほどわかるさ。
もちろん、最大限希望に添えるよう手は尽くす。任せて」
清楚な装いであってもなお、注目を惹く豊満な身体付き……に見惚れている場合ではない。
男も真剣な眼差しで見つめ返し、任せて と告げる言葉の力強さは先ほどの不健康からくる心配さを微塵も感じさせない。
そして
「ひとまず、身体の状態を診てからだね。まずは、熱と……免疫が弱ってないかを診よう。
顔を……失礼していいかな?」
そう言うと、少しだけ椅子ごと近づいてほしい と指示する。
拒まれなければ額に手を触れ、目に充血がないかを軽く見た後、口の中を診て喉や粘膜が腫れていないか……
”回復”以外にも処置が必要でないかはどんな時も確かめる必要がある。
この段階で、目に見える発熱や症状があれば……彼女の性分や気質を考えれば、医者としては「ドクターストップ」が充分視野に入る。
■マドレーヌ > 一度立ち、椅子を少し持ち上げ、もう一度おいた。
診察に適した距離まで詰める。
診察となると、その姿よりも力強く振る舞うものなんですね、と、彼女は思う。
仕事の時の姿は、私生活の姿と、同じようで違う。
そして、仕事の自分を魂に入れる時、人は疲れるもの。
額から伝わる体温は平熱。目の充血もない。
適度に開けた口の中には、病気の影も、激務の割には全くない。
ヘルペス、あるいはより悪辣な梅毒、それを超える呪術に近いもの、魔界のもの、それらの痕跡が、”ない”。
特別な魔術で防護されている旨は先生に伝えてある。
ただ、病気にならないのであって、疲れないわけではない。むしろ、病気にならないからこそ、疲労がレッドラインを超える予兆が感じられないことさえある。
聴診器は当てますか?と彼女は問うと、ワンピースの前身のボタンに手をかけかける。
■ブライト > それが身体的なムリ……背伸びするような行為であるのは否めない。
だが、それは誰もが生業の上で形は違えど持ち合わせているもの。
己の身を労わる思いを上回る信念や喜びが、彼らを”過労”に追い込むのはなんと皮肉な話か。
「熱も……特に風邪や感染症の類は問題なし」
問診表とは別に、バインダーに挟まれたカルテには素早くキレイな字で所見の有無を記録していく。
男の顔は真剣そのものだった。
体調を心配され、眉を下げて力なく気を付けるよ と医者の不養生を咎められた時の情けなさはどこへやら。
「そうだね……ありがとう。言わせちゃう形になっちゃったね」
中には頑なに胸部に触れられる事を嫌う患者も多い。
それが性知識に乏しい子であっても充分にあり得る。……むしろ、嬉々として見せつけられるとそれはそれで心配だが。
ともかく、聴診器を己の両耳に取り付ければ、そのまま彼女がボタンを外し終えるのを待つ。
準備が整い次第、「冷たいけどごめんね」と、金属部分を豊かな谷間へ。
なまじ豊満な双丘を、もう片方の手で軽く乳肉を開いて心音が聞こえる谷間へとしっかり密着させ……目を瞑り集中する。
「ゆっくりと息を吸って…………。よし、次は吐いて……リラックスしてね」
■マドレーヌ > この街にありがちな、性的なものがまあまあ、あから様に吹っ飛んでいるタイプの、そういう人物ではなかった。
ただ、そういう面を見せる場所について、相当にモラルがある、というだけかもしれないけれども。
ボタンをすべて外す、相手はプロとして信用できることはわかっているから、彼女も落ち着いている。
ここでよからんことをする医者が、この街にはいなくはない。
彼は、そうではない。
「いいえ、お構いなく。」
聴診器越しの音も、問題はない。
近くで見る彼女の唇は、大層悩ましいのだが、誘惑の手を押さえているので、特に何事もない。
フルカップのブラジャーにおさまった胸は、柔らかく、大きく、谷間も相当に深い。
これは事実に過ぎない。
そして、その下着自体も決して安いものではない。総レースで、場所によって使っている記事と伸縮率が違う、安くはないもの。
娼婦として稼いでいる相当の収入は、快適なもので自分を守り、いたわるためにも使っている。
■ブライト > 医療行為……とあっても、治世と善性の崩壊したこの王国では無防備に身を委ねることは一切の責任を自身が負う行為に等しい。
様々な病院で悪徳医者が治療の名目で異性を性的に貪り喰らうのはこの国でなくともよく聞く話だ。
それでも彼女はボタンを全て外し、たいへん豊かで肌艶が美しい胸を抵抗なく曝す。
露わになった素肌を前にしても、男は完全に己の職務に専心しているのか劣情を顔に表す様子もない。
「……心音も問題なし。ここまでで目に見える異常はなかったので、肉体労働が続いた疲労と……。
…………それから、問診表で書かれてた……こっちの方が心配かもしれないね」
聴診器をそっと胸部から離し、カルテに所見なし の文言がまた追加される。
そして、問診表を見ながら表情を崩さずにメガネの位置を整えれば
「このまま所見なしだったら、疲労回復と栄養剤を処方して無理しないでね……になるんだけど。
肝心の……一番心配なところかな。……今も、痛みはあるかい?」
高級感あふれる美しいブラジャーと、包み込まれた豊満な乳房から視線を顔に戻した後、
下半身に視線を向けて口頭でのヒアリング開始。
話を聞く限り、感染症やその類は件の魔術で護られており、その通りなのは間違いない。
だが、彼女の生業で「最も酷使される」であろう部分は果たしてそれでも十分かは懸念が残る。
■マドレーヌ > うっすらと、世界の盤面が悪に傾き続けている。
なぜかは誰も知らない。おそらく王家しか知らない。
だれも、神が入れ替わっていることを知らない。
「……そう、ですね……」
痛みはあるか。
痛みは問題ではない、と自分の職業意識が訴える。
さるミレー族を客に取った時、その身に余る巨根に奉仕しなければならなかった。
あまりに大きいゆえ、相手が務められる女性がいないことの孤独と苦痛は察するにあまりある。
しばらく逡巡する。
「……ありますね。あります。」
まだ教会に勤めていた時から、それらへの抵抗感は押さえつけられてきたが、だからこそ、あると認識しなければならない。
この仕事を続けるためには…。
物理的なダメージは、自動的に回復しないのである。
ブライトの学識や経験からは、いくら賢者の魔法でも、守られていない角度があることに気づくだろう。
物理的な損傷と、自らはまり込む精神病、そして中毒である。
「……それなんです。まだ大丈夫ではあります。出血もないです。
自分で初歩的な回復魔法をかけました…でも何か、及ばないはず。
あまり、看過するのは、きっと良くないことになるかと思って…。
それに、お客様は愛し合うことができなかったんです。あんまりじゃないですか…?」
■ブライト > いくら己の医師としての名誉が担保されていようとも、絶大な信を得ていたとしても……。
ここからの診断は極めてデリケートな領域となる。
恐らく、身体が動く限り……否。意識がある限り、もしも店や客の要請があれば彼女は間違いなく”応じる”べく動く。
そこを戒めるのも医者の職務だが、患者にも意思というものがある。
まして、強固な奉仕精神を持つ彼女ともなれば、注意だけで思いとどまらせるのは不十分なのは想像に難くない。
「うん……。……そうか、痛むんだね」
軽くうなずき、静かに言葉の続きを待つ。
全てを明け透けに聞くのは……必要であったとしてもナンセンスなやり方だ。
「まだ……か。そうだね、ボクが思った以上に自分で自分の状況を把握できてると思う」
親身に聞き入り、心配そうな表情で言葉の続きへ耳を傾ける。
出血はなく、自己対処もしたようだが性器……ましてや子を産み育てる器官となればそれは”臓器”であり。
うっすらすべての女性は感じているかもしれないが、身体の”内部”ともなれば外傷と同じ感覚では根治しがたい。
……男は直に聞いていないが、それも身に余る程の無理を伴う内容ともなればなおのこと。
「愛……か。仕事とはいえ人同士の営みなのに、ままならないね」
男は金で異性を買い、”愛でる”仕事の存在への客観的な理解はその辺の男よりある。
何を隠そう、止むを得ずその仕事に身を置き、似たような……場合によっては悲劇が起きてからの対処に立ち会った事もある。
「他にも、ボクが話を聞けそうな事はあるかい?身体もそうだけど……
心が悲鳴をあげてるモノに対しても、我慢をするべきじゃない」
彼女の痛みは医学的な部分だけには収まらないように感じた男は、穏やかな声で告げる。
あんまりじゃないか そう告げる彼女は、どんなことも呑み込んで、堪えて来たのだろうと男は彼女の労苦を憂う。
■マドレーヌ > 「…もし、心がいっぱいになって…」
下着をあらわにした胸元を、フロントボタンを閉めていき、服で包む。
「体もどうしようもなくなりそうでしたら、きちんと館に掛け合って、お休みをいただきます。
ですから、その時は診断書の発行を、お願いいたしますね?私は、もう大人ですから、いいのですけど。
わたしのいるお店の若い子たちに、その気持ちはむけてあげてくださいな。あの子たちは、うまく言葉にできないの。」
時々ここで、同じように体を見てもらう牛娘のメイベリーンとか、もっと若い男娼のアメデオなど。
メイベリーンは笑って済ませる座持ちができるけれど、一時の修行できていて本業は別にあるアメデオは未だ思春期で、心が脆い時がある。
わたしの体については、もし可能であれば、回復魔術をかけるか、それができる医院を紹介していただけると助かります、と言い添える。
「お世話になっている身ですけど、先生も、話したいこととか、ありませんか?」
ちょうど、人気のない、夕方の病院。
「わたくしは何もできませんけど、聞くくらいなら。…それとも、お疲れでしたら、膝枕しましょうか?」
木漏れ日に似た笑顔を見せ、両足をそろえてた。
■ブライト > 「もちろん。……君がボクに向けてくれたような優しさを自分自身にも向けて、そうならない事を願ってるよ」
うんうんと頷き、職場の同僚をも気にかける彼女の慈母のような広い心にはこの期に及んで周りを……と感服する。
自己犠牲が人の形をして生きている とも言える献身的 なんて言葉には収まらない慈しみに水を差すのは簡単だが、
彼女の在り様を時に否定する事にも繋がりかねない。
男は、彼女の強さと聡明さが彼女自身にもこれまで以上に向く事を願った。
「……ボクかい?」
目を丸くして自分を指差し。
ちょうど、疲労回復のポーションや痛み止めの塗り薬を処方しようと考えてたところで思考が真っ白に。
お疲れでしたら の言葉は、言うまでもなく自分を心配しての申し出だろう。
「ははは……参ったね。お見通しだろうけど、君が思ってる通り全然寝足りなくて……ボクも自分を追いこんでるかもしれない」
恐らく彼女の目に映る自分はとても、見るに堪えない姿をしているのかもしれない。
強がるつもりは毛頭ない。彼女はきっと、誰かの癒しであることが自身の喜びとなる……そんな人物だろう。
「……そうだね。パンと、暖かい紅茶ぐらいなら用意できるし……。……ちょっと汚いけど、大目に見てくれるなら……どうだい?」
そう言うと、静かに椅子を立ち己の私室へと招こうとする。
そこまで口が悪いつもりはないが、あんまり広い場所でペラペラ話す事でもないだろうと。
■マドレーヌ > 「あの、先生の生き方はとても立派だと思いますよ?ただ、身も心も全て使うから、寝不足なだけで。……でも、他の人にはちょっと伝わらないかも…?」
その生き方は、彼女の好意に値した。
今日に至るまでに彼が取ってきた非情な生き方も、きっと否定はしないだろう。
神々が公正であるならば、生きるためのやむを得ないことは、地獄に値しないはずだから。
この後、患者の来院などはなさそうですし、いいですよ?と、快諾した。
彼女は、あまり自分を顧みず、人のために動いてしまう。利他的に過ぎて、自分が薄い時がある。
彼の危惧は正しく、彼女は自分の危機を見過ごして耐えてしまう可能性が常にある。
さて。
彼女としても、静かな時間というのは大変好むところ。次に、話の舞台は私室へ。奮戦の結果が汚いなんて、とんでもない。
彼女は来院時に抱えていた帽子を忘れず持って行く。
■マドレーヌ > よしこーい!後1時間くらいかな…これは連休に続投ですな・・!
■ブライト > 【院長のメディカルチェックが始まるため部屋移動】
ご案内:「診療所」からブライトさんが去りました。
ご案内:「診療所」からマドレーヌさんが去りました。
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」に篝さんが現れました。
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」に影時さんが現れました。
■ヴァリエール伯爵 > とある貴族の邸宅で開かれた夜会。そこに男――ヴァリエール伯爵家の現当主は招待されていた。
日々執務に多忙を極めることに重ね、ここ暫くの他貴族の怪しい動き。対処に追われ休む暇もない。
先代の頃から交流のある侯爵家の招きでなければ、歯牙にもかけず断っていただろう。
旧知の友からは、企てを一度収め大人しくしているようにと釘を刺されたが、国の政に関わる以上、そうも言っていられないのが困りどころだ。
夜会の場に近衛兵を連れて歩くわけにもいかず、腕は立つが粗暴で礼儀知らずのメイドを従者として同行させるのはもっと拙い。余計な敵を作りかねない。
こんな時に便利に使える駒があればと、溜息もつきたくなる。
「やれやれ、また駒を増やさねばな……」
一通りの挨拶回りを終え、会場を見回る警備兵とすれ違い。
独り言をぼやきながら、少し酔いを醒まそうと貴賓室の一つへ向かう。
軽く扉を三度ノックして、誰もいないことを確認し、無造作に開いて部屋へ入り魔導の明かりを灯そうと壁に手をやった。
■影時 > ――“それら”は狙いを定めて放たれた矢の如く。
堅牢堅固を謳う鎧を貫く矢ではない。穿てぬものを穿つ勲は英雄に任せておけばいい。
我ら闇のもの。我ら影のもの。夜陰に紛れて敵に近づき、その背を刺すものなり。
ただの矢ではないが故に、撃ち込まれた先の情勢、状況を読み取り、踏まえた判断のもとに動く。
とある貴族の邸宅に招かれた貴族。伯爵家の現当主がその標的である。
牙城たる住まいではなく、他所の侯爵家を舞台にしたのは当然ながら訳がある。帯同させる側近、ないし近衛を減らせるであろうと見込んでのこと。
夜会にぞろぞろと大軍の如き手勢を連れていくのは、という貴族的思考のもと。だが、同時に考慮すべき点も確かにあった。
若くしてヴァリエール伯爵となった男の思考、スタンス、である。
己が父たる先代を暗殺して代替わりしたなる噂こそあるが、冷徹辣腕と以て鳴るもの。喩え知己とて、他者を駒の如く扱うことも有り得よう。
夜会の参加者、夜会の場所が修羅場となる可能性もある。だが、伯爵家の邸宅に忍び込むよりはまだマシだろう。
――故に決行する。警護の網を抜け、警邏の目を盗み、参加者の列にも紛れて。
「――おっと。這入っているよ」
貴賓室に忍び込む。先回りした者の片割れが惚けたような声を放ち、魔導仕掛けの明かりを灯さんとする手を掴む。
ぬるりと暗がりの中から立ち上がり、後ろ手になるようその手を極めながら、逆の手で相手の口を塞ぐ。
ぼうと暗赤の光を放つ瞳が、目配せする。近くに同じように控え、気配を潜めていた片割れに扉を閉じさせ、施錠せよと促す。
■篝 > 師の案に乗り、ヴァリエールの邸宅ではなく、他所の夜会に紛れ込み接触を図る。
伯爵家の警備が厳重になっていたことが最もな理由であったが、顔見知りの相手に会わずに済むと言う点で娘もこの案には賛成していた。
――そして、現在に至る。
師と共に潜入を果たし、指示に従い先回りして貴賓室にて対象を待つ。
娘は闇に潜み手を出さず、元主が捕らえられるのを横目に、師の命に従い素早く音を殺して扉を閉める。
元主の横を通る時、娘はその表情を見ることが出来なかった。
怒られるか、恨まれるか、それとも……。本能から来る畏怖で、少しだけ足がすくむ。
「……」
一言も発しぬまま、娘はすぐに師の後ろに下がり、感情の籠らぬ瞳で二人の男を見据えた。
■ヴァリエール伯爵 > 暗闇の中で伯爵は黄金の瞳を大きく見開き足を止める。
――正確には、止められた。軽い調子の声がするや否や、闇から出でた手に腕を取られ拘束される。
闇に浮かぶ二対の赤い光。一つは暗く陰る暗赤、もう一つは煌々と燃える緋色。後者には見覚えがあった。
ついこの前まで飼っていた白猫の目だ。
「…………。」
口を塞がれては助けを呼ぶことも出来ない。元より、呼ぶつもりはまだない。
ここで騒ぎを大きくして取り逃しでもすれば屋敷の主の面目を潰しかねない。
何より、この白猫が面倒だ……。何故、よりによってと、頭痛がする。
何が目的かは、今は不明。しかし、出会い頭に命を取られていないなら、暗殺が目的と言うわけでもないだろう。
暗赤の男が出す指示に緋色が頷き扉を閉める様を見て、何を察したか、伯爵は無言で冷ややかに緋色を見下ろしていた。
■影時 > 事前情報が確かで良かった。スムーズに潜入出来た点もまた良い。だが、問題はここからだ。
今抱えている件で、留意しておくべき点は一番の関係者からの聞き取りである。
事の発端であるシュレーゲル卿は言いたいことはあるようだが、確認と言質は取っている。殺害が目的ではない。
「ご苦労。さてはて、やっと話が出来るな。……と」
頼んだ通りに扉を閉めてくれる小柄な姿の手並みに頷き、魔導仕掛けの照明を作動させる。
暗から明に。生じる光に順応させるように数度瞬きをしたのち、そっと手を放しヴァリエール伯爵を解放する。
一歩、二歩と下がってみせる姿が、相手に露になる。
上から下も黒色主体の装束と頭巾で覆い、呪符を幾重に貼り込んだ手甲と額に鬼めいた角が生えた鉢金を付けた長身の男。
それがおもむろに拝み手をして、頭を下げてみせる。会釈してみせる。
「どうも、ヴァリエール伯爵。先刻は手荒な真似をして申し訳ない。
ワタシは……色々名前があるが、さて、どう名乗るべきかな。一先ず影と名乗らせてもらおう。
今回はシュレーゲル卿の名代として、それと幾つかの私用を果たすために此方に赴いた。
……色々と話は伝え聞いているが、心当たりはお有りかな?」
まずは挨拶をする。挨拶は大事だ。長身の陰に小柄な姿を隠すように立ちつつ、まずは用向きを述べる。
述べつつ懐を漁って取り出すのは封筒。白い封筒に赤い封蝋がなされている。
その封筒に押し込まれた印のカタチを判別できるならば、頭が痛い顔をするかもしれない。此れが事の発端だ。
■ヴァリエール伯爵 > 明かりが灯り次第に目も慣れて来る頃、拘束は解かれ腕は自由を取り戻す。
「――……こうも手荒い挨拶は久しぶりだ。
其方は、夜会の客ではなさそうだが……招待状はお持ちかな?」
小さく息を吐くと、慌てた様子もなく、冷静に余裕ぶった物言いで尋ねた。
軽くジャケットを手で払って皺を伸ばし、距離を取り佇む男へと視線を向ける。
全身を覆い隠すような黒装束。頭まで布で隠すのは暗殺者の仕来りなのかと疑問を感じるが、相手は冗談を望んでいる風でもない。
下手に出て挨拶をする男を眺めながら、ツカツカと一番近くにあった椅子の背に手を添えて。
「ほう、シュレーゲル卿の。はて、心当たりと言われても……。――掛けても良いかね?
おおっ! そう言えば、暫く前に夜襲を受けて屋敷が酷い有様になったとか。その節は大変だったそうだな。
私も忙しい身故、見舞いを贈る暇もなく……それを咎められては言い訳もない」
一言確認を取るが、返事を聞くつもりはなく先に椅子に腰かける。
そして、男の話に相槌を打ちつつ、脚を組み、手渡された封筒を何気なしに開けて、中の書類を見やり顎に手を添えにこやかに言う。
「挨拶が遅れて申し訳なかったと、卿に伝えてくれ。
近い内に使者を送るとも、な」
伯爵は知らを切り通し、男の後ろに隠れた猫にも聞かせるように告げる。
含みを持たせた言葉はどう相手に聞こえるか。
■影時 > 「……なに、ワタシと其方の仲だ。招待状は無用だろう?」
何を下らないことを。仲というものでもそもそも無かろうに。だが、戯れるのを愉しむように答えよう。
小柄な方には、この時、この男がどんな表情をしていたか分かるだろうか。
だが、浮かべて見せるべき顔は口元を隠す頭巾の下。着席しても良いか否か、尋ねる姿には小さく頷いて。
「どうぞどうぞ。嗚呼、シュレーゲル卿からはその手のお言葉は聞かなくても良いと聞いている。
まずは用向きを果たさせて頂きたい。
その夜襲で蒙った被害額、修復費用、安眠を妨げたことによる慰謝料、その他諸々雑費の請求書だ。
取り敢えず、確かに手渡したぞ。そして……あの若造は、“そのように”宣うと思うから、こう伝えよと仰せだ」
確認するまでもなく、座す有様に肩を竦めつつ預かった文書を手渡す。
中身は非常に簡潔。どのように迷惑した等罵詈雑言の類は何もない。ただただ、明瞭に項目と数字を記している。
雑費という名目は奪取されたと思われる書類にまつわる対処を、気分の二文字で数倍にも膨らませたものでもあり。
総じて一部お遊びも混ぜ込んだ書状だ。『――以上、貴家に請求する』と言うような〆まで見ても、そのにこやか顔は変わるまい。
「“来るなら直接来やがれ若造”、と。
そして、ここからはワタシの用、詰まりは私用だ。
その夜襲で損失したと思われる猫について何やら手を出していたようだが、相違ないか?」
喉にコリコリと揉み、吐き出す声はがらがらとしながらも覇気がある老人の声。
短くも端的に述べ、やる気満々だなぁと内心で苦笑しながら、続く用件に移る。なァ?と肩越しに猫の方に目をやって。
■ヴァリエール伯爵 > 意外と軽口を叩く男。その下にどんな表情が浮かんでいるかを知るつもりも、冗談を聞くつもりもない。
言葉は返さず、目を通し終えた請求書の束を綺麗にそろえてサイドテーブルの上に置く。
「なんだ、それで憤慨してと言うわけではないのか。残念だな。
……ふむ、請求書は確かに見たが、先ほども告げたように心当たりが無く――」
それが何だと聞き返す前に、伝言が告げられた。
器用に嗄れた老人の声を出す男に目を瞠り、僅かに眉間がひくついた。
シュレーゲル卿とヴァリエール伯は余程相性が悪いのだろうことが、その僅かな変化だけで伺えることだろう。
続けて告げられる私用の件、猫と称された少女は相変わらず隠れたままでいる。
男が振り返り目くばせをしても声は発しずに此方を視るだけだった。
暫しの無言を挟んだ後、伯爵は告げる。
「先ほどから、訳の分からん話ばかりで頭が痛いな。
シュレーゲル卿の屋敷の修繕費諸々を私が支払う理由も、そちらの猫とやらの件も。
こうも濡れ衣を着せられては私も黙ってはいられん……。
――まず、シャッテン殿。其方へ掛けたまえ」
そう言って掌で差すのは向かいの席。椅子は一つであり、男に座るよう促す。
「第一に、交渉を持ちかけるに置いて優位を取るために直接脅しをかけるのはお勧めしないな。
交渉の席につかせたいならば、まずは敬意を払って然るべきだ。相手が貴族であるならば、尚のこと。
興に乗せねば話にもならん。
そう言う点で、貴殿のやり方には少々問題があると言える」
今回は、騒ぐわけにはいかない理由があったからこそ、こうして席についているだけだ。
「第二に、もしも私が悪意を持ってシュレーゲル卿の屋敷を襲ったと言うなら、
請求書ではなく明確な証拠を掲示しなければ、それはただの濡れ衣にすぎん。言いがかりでは誰も動かんよ。
卿が私との戦争を望んでいるのなら、別だがね。
……っと、これは使者である貴殿ではなく卿へ直接伝えるべき苦言だったか」
今の所、シュレーゲル卿に証拠らしい証拠は無いと踏んで、余裕ぶった態度を崩さず男は語る。
元飼い猫は何処まで話しているかと言う不安要素はあったが、それが公になる前に猫がヴァリエールに関係していたと言う証拠は全て消した後。
本人がどれだけ証言しようとも、ヴァリエールを陥れようと言う何者かの刺客として切り捨てられる。
■影時 > 「ククク、なんだ……存外に心当たりが在りそうじゃないか。その辺りはまだまだ青いなぁ、若造。」
己と同じ年嵩かと思えば、シュレーゲル卿から聞いた情報、貴族名鑑、盗賊ギルドで集めた情報を集め、少し驚いたこともある。
若いのだ。存外にまだまだ若い。だから己もこう言っても差し支えない歳の差である。若造と。
智謀策謀云々については、何分土地柄もある。この相手が先んじる要素は大いに在ろう点は、是非も無い。
丁寧に声帯模写したうえで宣ってみれば、僅かなりとも眉間をひくつかせる有様に肩を竦め。
「いやいやそれには及ばない。後ろに隠れているのにも見えるよう、床の上に失礼させて頂こう。
別段脅しと云うわけでもなくてね。
ワタシはシュレーゲル卿に雇われる立場として、承ったものを伝えただけに過ぎない。使い走りだ。
……そうだな。俗な言い方をするなら“勝手にやっていろ”と、思う者でもある。
このご時世、よくあることだろう?こういうことは。
後ろの弟子の育成やら何やらに忙しいンだ。使者か護衛以外の用向きで、ワタシから方々に出向くつもりはない。
だが、雇われて偶々シュレーゲル卿の屋敷の庭先なぞにでも居たら、お相手仕らなきゃならないがね」
云いつつ、床の上にどっかりと胡坐を掻いて座してみせる。装いはあっても堂々とした胡坐っぷりだ。
今回のシュレーゲル卿としては、被害請求にかこつけた直接の挑発、といった処だろう。
伝え聞く情報から鑑みるに、件の襲撃の件や実行者のことを無かったことにしたい――ともとれる流れでもある。
お前たちは忘れた振りをしていても、我らは忘れていないとでも、云うような。
また、二度、三度の動きが生じる可能性もある。今の己に暗殺者として出向くつもりはないが、偶々戦場に居たならば仕方がない。
「さて、ワタシにはその意図は分かりかねる――とは言いたい処だが、伯爵?
昨今そちらのお家の使用人などから、記憶が曖昧になっている、抜け落ちているとか。
色々と辣腕を以て聞こえる家に仕える者にも関わらず、由々しいお話ではないかな。
卿の屋敷が燃えた頃に後ろに立っているのを捕まえたのがワタシなんだが、嗚呼……こんな感じのを送られたかな?」
胡坐をかいた姿勢で肩を数度、揺らしてみせるのは笑っているつもりだろう。
世間話めいた体を保ちつつ、嗚呼、と記憶を巡らせる。弟子とした娘を捕まえ、その後のことだ。
装束の隠しから取り出す符に念と氣を篭め、ひとつの術を紡ぐ。符がぱっと燃えて淡い光を纏う蝶のカタチを取る。
己と伯爵の間の中空に留まり、音なく明滅して一連の信号を送ってふっと消える。跡形もなく消える。
【目標ノ奪取ニ成功。離脱ヲ完了シタ。生存者ハ帰還セヨ】という、旧い暗号文。
この符牒の暗号文も含め、シュレーゲル卿に報告し、奪取された書類の目録、内容も把握している。
それらにまつわるヴァリエール伯爵側の動きが、帳簿や手勢の動き等のカタチで現れているのなら、それを突く形での動向もあり得るか。
■ヴァリエール伯爵 > 肩を竦めて返す男を冷たく見返し、僅かながら表情を崩した己の未熟さに呆れて嘆息する。
それはそれとして、交渉の席に着くよう促したが断られてしまった。
床に座して言い返す言葉はそう、“勝手にやっていろ”である。
「ほう……。雇われの身、か。それはそれは、あのご老体の相手も難儀なものだろう。
我が屋敷にお出で頂く事も、顔を合わせることも二度とないと思いたいものだね」
所詮は使者。雇われの身であるなら、忠誠を誓うわけでもないか。
右手を顎に手を添え、左手は肘に。トン、トン、と人差し指で肘を叩きながら相手を見下ろし考え耽る。
交渉役ならまだしも、これ以上の話はただの使者相手にするものでも無いかと切り替え。
「…………、ふむ。何やら怪しい話になって来たな」
笑って見せるその裏でどんな顔をしているやら。覆面から覗く暗赤を見据え、煙に巻くように言葉を履いて首を捻る。
男の言う所には、心当たりは当然あった。
友の助言に従いそれを命じて魔術を掛けさせたのは紛れもない伯爵自身である。
その結果として、屋敷の者は伯爵と唯一人を除いて、娘に関する記憶は別人のものへと塗り替えられている。
どこからその話が漏れたのか、考えるまでもない。使用人からであろう。
男が取り出した紙は燃えて蝶へ変わり、何度か瞬いて消える。
それを見届けた後、また伯爵は暫く目を伏せ考え込み、スッと視線を男の後ろ、黒づくめの小柄へと向ける。
「――シャッテン殿、雇われの身であるならば一つ提案をしてみようか。
給金はシュレーゲル卿の倍を払う。私の下で働く気は無いか?」
小柄ではなく、誘いは師である男の方へ。
無論、断られるのは承知の上での戯れである。
にこやかに微笑み、黄金の瞳を歪めて男は言葉を続けた。
「それを断るのであれば、取引はどうだろうか?」
――と。
■篝 > 師が己が屋敷に戻ることを止め、危惧していたことが本当になってしまった。
知らぬ存ぜぬを貫いて、名も知らぬミレーの娘がやったことと切り捨てられる。
暗殺者の末路などそんなものだと、わかっていた。
暗殺失敗には死を持って幕引きを。
証拠は残さず綺麗さっぱり消えねばならない。
その言いつけを守れず、死にきれなかったことを今一度後悔する。
心の中で元主に詫びながら、「やはり死んでおけばよかった、そうすれば主を悩ませず済んだのに」そう思わずにはいられない。
落ち込む中で、娘が一つだけ喜んだこともあった。
師が見せた蝶の暗号である。ヴァリエールの密偵の間でよく使われる連絡手段の一つ。
この伝言が正しければ、娘は暗殺は仕損じたが、主の役には一応立っていたと言うことになる。
今この場で現金に喜ぶことは出来ないので大人しく小さくなっていたが、術で隠した尾はピンと立ち震えていたことだろう。
――師と主の間で行われる腹の探り合いは、機微に疎く上辺しか読み取れない娘にとって一見和やかなものにも見えた。
しかし、どこか空気がピりつく感覚を覚え、無表情ながら不安そうに師の後ろに正座し、大きな背中を見つめる。
■影時 > 一挙一動が演技にもなるし、ならないかもしれない。
政に関わる施政者の仕草は、劇場の花形役者の如く他者に印象付けるだけのチカラを持つ。
「なに、以前色々世話になったものでね。慣れたものだよ。
恩義がある。偶に無茶振りもされるが、それに見合った代価を寄越してもらっている。
そう願いたい処だが、次第によっては已む無しとならないようにしたいものだ。
……――先日、ワタシの塒に沸いた人のような蟲を潰したが、其方の手駒だったら伯爵。
御身の寝床の周りに、幾つもの首が円を為して並んでいたことだろう」
昔と立場が変わっている。一冒険者として真っ当に請け負える類以外は、もう請け負うつもりはない。
護衛ならばまだしも、今のような使者も今回の件以降は、極力願い下げだ。
私事として巻き取ったことに関連しているから、事のついでにメッセンジャーになったに過ぎない。
先日、自分達を襲った者達がヴァリエール伯爵家に関与していることが明瞭だったら、“昔のように”やっただろうが。
「いやいや全く。雲を掴むような、というのはまさにこの通り」
ははは、と。密やかな笑い声を奏でる有様は、声を聞くだけであれば和やか。
だが、その背を見遣る娘も感じた通りである。
部屋の調度に夏の大気を冷ますチカラを持つものがあろうが、その魔導仕掛けよりも空気が冷ややかに感じられるかもしれない。
そのわずかな空気の流れで、気配の動きに内心で男は苦笑を滲ませる。尻尾をこう、動かしていそうだと思いながら。
「……成る程?さすがは伯爵、察しが良い。
取引の材料による。ワタシが欲しいのは幾つかの情報、そして約定だ。
先ずは、其方が提示できる事項、要件を伺いたい」
ここまでの仕草で幾つか向こうに知れた、知識としてストックされたものがあるだろう。
者によっては絵に描いたように見聞きした全てを記憶する天才も居る、とも聞く。
否、既に何らかのものを知悉している可能性もあるが、はてさて。考え過ぎても仕方がない。
記憶を操作するのは機密保持、改ざんの手立てとして実に有効的だが、それを効果的だと実行できるものの気が知れない。
……ここで首を刎ねるが世のためかもしれない。だが、三つ首の蛇は易く死なぬが故に恐ろしい。
族滅、掃滅めいた沙汰でなければ、滅ぼせまい。面白がって関わりを持てない戦いは、もっと適任な者達に任せておく。
自分としては、あとは好きなようにしたいのだ。気乗りしない戦いは極力避けたい。
■ヴァリエール伯爵 > 「部屋に蟲とは、さぞや気分を害したものだろう。心中お察しする。
飼うならやはり猫や犬を私はお勧めしよう。猫は特に害虫駆除傍にはもってこいだからな。
傍に置くも、床の供とするのも悪くない……そう思わんかね?」
宿での騒動を知っているのかいないのか、淡い笑みを口元にだけ浮かべたまま頷き返し。
潰された哀れな蟲には心を痛めるはずもなく、我関せずと聞き流して話を挿げ替え探りを入れる。
後ろの小柄を弟子と呼んだ関係性は、その距離感から察するには曖昧で、どんな物かと興味本位の一手だ。
互いに笑って煙に巻いた話は何処に行きつくやら。
話題を切り替え持ち掛けた提案に、男は快い返事を返す。
無論、最初の提案はあっさりと躱されてしまったわけだが。
それは元より諦めていた誘いだったので残念がる必要もない。
「情報と、約定か。……良いだろう。
まぁ、私のは要件とは少し違うかもしれんがな」
相手の考えることを覗き見るような眼は、流石の蛇も持ち合わせてはいない。
しかしながら、相手の望むことを察するのは得意とするところ。
甘い蜜の詰まった林檎を差し出す様に、一見良い条件に見える提案をしてみせようか。
にこりと笑みを深め、
「先ほどの貴殿の言葉、“勝手にやっていろ”だったか。どうもその裏に、“放っておいてくれ”とも聞こえてな。
色々と困っていると見える。
さて、そこで一つ尋ねよう。
――貴殿は、その後ろに控える弟子とやらに、幾らまで出せる?」
サイドテーブルに置きっぱなしになっていた書類の束を、持ち上げひらりと揺らしてから男へと差し出す。
■影時 > 「なぁに、昔もよくあったコトだ。方々に迷惑なのはどうか、とは思うが。
……こんな都市だろう?火事になったら目も当てられない。
はて、猫は鼠退治の方が得手と思うが。とは言え、愛でるにはいいな。とても悪くない」
「伯爵は犬派かね?」と。続けるこの切り替えし方のみを聞けば、随分と穏やかそうにも聞こえるだろう。
だが、其処まで至るまでの会話は、同席している者が真っ当な神経をしていれば、きっと胃を痛くしかねない。
そんな会話をしながら探りを入れる。人となりを確かめ、ないし再認する。
猫を飼うのは鼠退治であり、害虫駆除と云うのは――如何なる認識、あるいは知識の元であるかどうか。
不可思議げに首を傾けつつも、猫派か犬派めいた愛玩動物的な話へと持っていきつつ、思考を巡らせる。
――恐らくどちらが有利、どちらが勝ち、という流れにはなるまい。
仮に此処で相手を殺したとはいえ、問題がある。死体の処分と現当主が居なくなった後の家の動き。
もっとそれ以前のこともある。天井ないし足元、壁の向こうに窓の外。
腰を据えて話し合うのは、全方位からの奇襲に備えるからに他ならない。
「卿からの使いを請け負ったのは、ついででもあり、そうした私用からでもある。
ヴァリエール伯爵、ワタシは貴公が手勢を放って卿の邸宅を攻めた際、その場に居た。
使いでもあるが、当事者でもあるな。
……ふむ。成る程。耳が痛い。嗚呼、その問いならこんなのはどうだろう。
卿の首を競売に出したら、付いた値位は、という答えはいかがかな?
さぞかし方々からあることないこと言われている、思われているようじゃないか。
と、云うわけで。ワタシは貴公を殺さないかわりに、幾つかの尋ね事と約定を得て一区切りとしたい」
少し耳が痛い。だが、痛い処には変わらない。
だから、素直に耳が痛いと述べつつも、減らず口めいたことを切り返してみよう。
殺そうと思うことは容易い。殺すことも容易いだろう。やろうと思ったなら、次の瞬間済んでいるかも位に。
否。様々な札を使いまくることを躊躇わないなら、別の政治的なアプローチをつけられなくもない。
だが、お互いにこだわり過ぎて七面倒臭くなるよりは、手打ち的な所にまで持っていっておければ――最善だろうか。
■ヴァリエール伯爵 > 「鼠はまだ使い道があるが、蟲は駄目だ。芸を仕込む価値もない。
役に立たない者は存在するだけで邪魔になる……。
犬も猫もそう変わらんと思うが。そうだなぁ、私の役に立つ方が好ましい。とだけ答えようか」
蟲も鼠も大差はないが、命令を聞くだけの脳が無いものを伯爵は嫌う。
猫が蜘蛛を仕留めれば、犬は鼬を噛み殺し、猫と犬が鼠を捕まえれば芸を仕込んだこともあったか。
役に立つ駒だけがヴァリエールの館に残る権利を持つ。
小さくなる小柄の肩が微かに震えた気がしたが、気にせずに伯爵は話を続けた。
「ほほう、弁明も聞かず犯人扱いか。まぁ良い、否定してばかりでは話が進まないからな。
今はその体で聞くとしよう。……であれば、その猫とやらとも一戦交えたと言う所か」
なるほど、と首肯したかと思えば、ククッと喉の奥を震わせて嗤った。
「……殺すとはまた物騒な。やはり脅しではないか。
――しかしな、それでは私は動かんよ。
何より、この場で私を暗殺しても、事件はますます大きくなるばかりで貴殿の思惑からは外れる一方だ。
暫く話して確証を得たが、貴殿は物事の通りを弁えている。
直情して私を切り殺すほど愚かではあるまい。よって、それは脅しにはなりえない。
さて、其方の希望する約定とやらをまず聞かせてもらおうか」
弟子にこの首と同等の値段を付けると聞けば、笑みを浮かべたまま何度か頷き。
ここで相手に殺されると言う危険は無いと信じて疑わず、もし仮にその勘が外れたとしても――
黄金は男の背後に控える猫を見る。
そう言った時、どう動けばよいか、散々教えられた物覚えの良い猫は、けして忘れていないと言う確証を持っていた。
■影時 > 「蟲の種類にもよるが、……ふむ。蜜蜂ならまだ使い道はありそうだが、おっと。そういう話じゃないな。
成る程成る程。であれば、貴公の役に立たなくなった猫をワタシが引き取ることに何ら問題はないか」
蟲も色々だが、喰える蟲は――此れは意味合いを伝え難い。
益になるか。益になるように使役できるかにもよる。蟲遣いという術、魔法もあるが、それを言うときりがない。
蟲は駄目、と。毒蟲の類でも呼び寄せてみようか。ふと、戯れ交じりにそんなことを脳裏に思う。
伯爵の言葉に小柄が震える気配を察しつつ、胡坐の姿勢のままで相手の目を見遣る。
「わざわざ此処に伺う前に、下調べをしなかったと思うかね。
後ろの当の本人がなかなか喋ってくれなくてな。答え合わせに至るまで、色々と苦労したものだよ」
一戦交えた、という言の葉については、ひょいと肩を竦める。
骨が折れたなあと言わんばかりの声の抑揚には、よくもまぁ仕込んだものだ、という呆れの響きが色濃い。
迂遠と金銭を掛け合わせた結果、各方面に迷惑と骨折りをかけたものだが、はてさて。
「そうとも。動かないだろう。
……ああ。殺しても思ったより値が付けられない、ヴァリエールの家名なぞ所詮は、という結果もあり得るか。
おっと、これは言い過ぎか。失礼。この通りだ。
まず知りたい用件をひとつ、そして確約を望むものひとつを述べよう。
まず、ヴァリエール伯爵は未帰還であるこの猫に対し、暗殺の依頼を出していたか否か。
出していないのなら、その出元に心当たりがあるかどうかを伺いたい。
これがひとつ。
ヴァリエール伯爵はこの猫をワタシが引き取ることに同意いただきたい。
同意いただけるなら、ワタシはシュレーゲル卿の身辺と邸宅の敷地内に同席、同伴している場合を除き、其方を害することはない」
仮にもし、立ち上がり様に話す相手の首を刎ねようとするなら――後ろに居る弟子/猫が牙を剥く恐れもある。
それは仕方がない。その時は、その時だ。
この程度で揺らぐ伯爵ではないよな?と言わんばかりの皮肉を混ぜつつ、尋ね、或いは交わしておきたい用件を述べる。
■影時 > 【次回継続にて】
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」から篝さんが去りました。
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」から影時さんが去りました。
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」に篝さんが現れました。
ご案内:「貴族の邸宅-夜会」に影時さんが現れました。
■ヴァリエール伯爵 > 「……いや、それには及ばん。一度飼ったペットは最期まで面倒を見てやるのが飼い主の務めだかな。
道に迷いようやっと主の下に帰ったのだ、猫も喜んでいるものと思うが……どうだ?」
そんな悪戯を思い描いているとは思わずに、伯爵はゆっくりと息を吐き、否を返す。
最後の問いかけは男にではなく、その後ろにいる小柄へ告げるものであった。
「ほう……」
その後に続く下調べ云々を労うような言葉は当然かけず、中々喋らなかったらしい猫を無表情で見下ろしていた。
なるほど、答えに行きつくまでの時間は一応稼いだわけか。
どのような拷問を受けたかまでは想像できないが、おめおめと生きて戻ったと言う最大の失点が、ほんの少しだけ軽くなる。
とは言え、取り返しのつかない失態であることに変わりはないのだが。
「構わない。卑しい下賤の民の言葉にいちいち目くじらを立てていては、貴族は務まらないからな。
――……ふむ、なるほど。
一つ目の問いに答えるか否かは後回しだ。なに、取引が成立したならば答えよう。
さて、もう一つの願いだが……これは貴殿の行動次第と言ったところだな。
先に述べた通り、貴殿が私を害するかどうかでは取引になりえない。余程腕に自信があると見えるが、防ぎようは幾らでもある。
……私がした質問で、貴殿は私と猫の首の値打ちが釣り合うと言った。
私としては耳を疑いたくなるところではあるが、ものの価値は人によって異なるので致し方ない。この首の値段もな。
では何をもって基準とするか……。価値として統一されたもの――金での支払いが妥当だとは思わんかね?
今ちょうど、私の首を欲しがりながらもふざけた請求書などを送ってきたものがいる。
……貴殿はこの中身を見たか? まだだと言うのなら、一度目を通すと良い」
つらつらと言葉を並べ言うことは一つ。
交渉である。伯爵の首と同等の値を猫につけるのであれば、襲撃を受け怒りに身を燃やし伯爵の首を今も狙っているであろうシュレーゲル卿が出した請求書。それこそが猫に釣り合うと。
封筒ごと請求書の束を差し出して、冷え切った瞳を愉快気に細め言う。
これを断るならば、猫にはそこまでの価値は無いと男が言ったことになる。
そうなればまた違う値段をつけてやるまでのこと。所詮金で買った猫だ、手放し人に譲る時も金次第。
■影時 > 「飼い猫ね。然様か――……ふむ、ふむ。やぁ、忝い。当の本人からその言及を聞いておきたかった。
さて。お前さんは答える必要があるなら答えても良いし、答えなくとも良いとも」
ここまでしっかり着込んでいると、少々暑いのか。襟元を弄りながら答える。
だが、もぞつかせる手つきはしても脱ぎはしない。
迂遠とも韜晦ともつかぬやり取りの中で、言質めいた言の葉を聞くのは何と言うか、少しだけ心地が良い気さえする。
――問題は此処からだ。
さて、と語りかける先は伯爵ではない。ちょんと正座している弟子に対してだ。
記憶が操作されている、といった話を聞いた時点で、同時に考慮しないといけない事項が増える。
己の与り知らぬ、どうしようもない何か、符牒等で現状が覆り、弟子としたつもりの猫が己に牙を剥く、といった恐れ。
記憶を消す、ないし操るというのは人心を直で弄るということ、にも繋がる。
中々どうして、件の御仁は産まれた場所を間違えたような気がしてならない。戦国の世なら、斯様な所業はいくらでも角が立つまいに。
この場に至るまでの情報収集は、可能な限りやった。だが、結局のところは向こうが知らず存ぜぬを貫こうとすれば幾らでも為せうる。
所領全員は兎も角、監督下としての最小単位となる者たちの間でそうしたのは、どう見るか?
それは実行者のうち、露呈しかねない要因の関係者が恐らくは最小限になると考えたからであろう。
「それはどうも。
――ん? 嗚呼、それには及ばないとも。封をする前の段階でワタシも既にそれは見ているのでね。
クク、いやぁ、中々愉快な金額だったろう? 借金をされたいなら、当てがあるから遠慮なく申し出てくれるといい。
ヴァリエール伯爵、御身が先程仰ったように、結局のところ此れは言いがかりだ。難癖付けだな。
しかもしかも、伝え聞いたハナシが真であるならば、だ。
此れでは下手人の一人が其方の関係者であったことを証明、証言するするのも無理ということだろうなあ。
そしてな。恨みの値打ちを貨幣換算できるなら、苦労はせぬのだよ。
卿から名代として信は得ている。恨みは忘れておらぬと、吹っ掛けるだけ吹っ掛けるのは済んだ。
貨幣換算できぬものなら、それは価値がないという見方も出来る。
であるなら、ワタシは己が欲のままに誰のものと証明できなくなった捨て猫を引き取らせてもらう、というわけだ」
結局のところとして、卿はおおっぴらな戦い、戦火にこそ誉れを感じる手合いの癖が抜けない点がある。
今回の直談判、面談の出方を可能な限り考慮するに辺り、当然なこととして、払えるかと云うような流れも想定していた。
当然である。もりもりに吹っ掛けたのだから当たり前だ。最終的な実費がどれくらいかは、秘密だが。
差し出された封筒と請求書の束をひょいと掴み、覆面の下で嗤いながら丁寧に畳んで懐に仕舞う。
謳うように、戯れるように言の葉を述べつつ、ちらと猫の方を肩越しに見遣ろう。
散々に云われたのだ。己を己と知るものが居ないなら、喜べぬと思うなら、ついてくるが良い、と。
■ヴァリエール伯爵 > 知らぬ存ぜぬでは、ここから先の話は出来ぬ。
どちらに所有権があるかも含め、はっきりとさせておかなくては……。
襟元を弄る手は暑さ故か、それとも焦燥からか、気の緩みか。
此方の返しにまだ余裕を崩さず話を続ける男を見据えたまま思考を回す。
「ふむ、であるな。
それ故に、私はこの言いがかりで送りつけられた請求に応じることは出来んのだ。
無論、支払えぬ額では無いが……支払ってしまえば、襲撃の首謀者であると認めたも同義だからな。
しかし、貴殿がしかと書状を送り届けたなどと報告してしまっては、知らんふりも出来ない……。
あの爺のことだ、大義名分を得たと我が物顔で当家へ押しかけて来るだろう」
これは本心から出た言葉なのだろう。「忌々しい老害め」と小さく吐き捨てる声は静かな部屋でははっきりと聞こえた。
この請求書を見なかったことに出来るなら、それが一番楽に話が済む。
知らぬ存ぜぬ。盗み出した書類も既に処分した後、下手人の存在も勿論認めるつもりはない。
「――故に、私からの条件だ。
一つ、貴殿はこの請求書と引き換えに私から猫――篝を買い上げる。
二つ、篝は私との契約を持って、任を解くことを約束しよう。その後は何処でどう生きようと勝手にすると良い。
契約と言っても単純なものだ。
今後、ヴァリエールとの関りがあった事実、そして私から受けたすべての任について他言無用とする。
手放す以上、これくらいの縛りを与えるのは当然。理解してくれるだろう?」
一つ目は男へ、二つ目は小柄――篝へと向けて交渉が持ちかけられる。
口調こそは穏やかで笑みを携えたものであったが、その瞳はやはり冷たい。
■篝 > 心配そうに二人を見守っていた娘は、師に呼びかけられ一瞬息を詰まらせた。
「……わ、私……は――」
元主に会えて、喜んでいる。喜ばしいと、感じているのは事実。
主の周りで不穏な動きが起きていると聞き、心配していたが故に、健在な姿を視れたことを喜んだ。
だが、今世話になっている相手の手前、帰れたことを素直にも喜べない。
どちらとも答えることが出来ず、迷った末に娘は平服し、「申し訳ありません」と謝ることしかできなかった。
暗殺者として、長く仕えた主。けして善良な者ではないが、人を人とも思わぬ外道の類であったが、未だ未練がある。
その主が、手放す条件として金銭での支払いを上げた。
奴隷の頃と同じように、所詮は変わらず金で売り買いされる身であるのだと、ただただ静かにそれを受け止めるしかない。
あの請求書にはいったい幾つの数字が並んでいるのか。話を聞くに、相当な額であるとうかがえる。
そこまで価値は己にはない。これは間違いなく言えること。
元主は、最初からこのバカげた金額を支払う気も、また誰かに押し付けるつもりも無いように思う。
ただ目障りで厄介な請求書と共に、役立たずを処分しようという腹積もりなのだろうか……。
娘には主の腹の底は伺えない。
だが、返事はしなくてはならない。
「…………先生が、条件をのまれるのであれば、私も従います」
長い沈黙の末、やはり己で選ぶことは無い。
娘は己の現所有者である師に従うことを選んだ。
■影時 > ――此れが暗闘、仕損じれば最後、誰からも助けを受けられない闇の仕事の恐ろしい処だ。
冒険者ギルドは兎も角、盗賊ギルドでもこういう側面はあるだろう。所謂暗殺者ギルドだと、顕著か。
存在否定可能な人員を差し向けるのは何故か。証拠隠滅、トカゲの尻尾切りを容易くするためだ。
忍びの里の頭として数人の徒党を送り出し、一人が帰って来なかったと仮定する。
帰参した者達が誰一人として未帰還者の骸を見た、後始末をしなかったと言ったなら、さてどうするか。
己が考えることと伯爵が同じである、というのは言い過ぎだが、徹底したい気質としたら、事後確認の必要が発生する。
――問題はあの襲撃が、生存確認が出来たからの証拠隠滅であったかどうか?だ。
先日、盗賊ギルドで対象とされてよう弟子と話した通り、証拠隠滅の実行者にしては雑極まりなかった。
故にこそ確認しなければならない。仮にもし、噂の依頼が別口であった場合、相対すべきものを絞る必要がある。
「ククク、老害というのはワタシからも何とも言えんねぇ。
ワタシも此れは此れで、知己からジジイと呼ばれるものでね。
出た書類等についても、最終的に色々対処されるのも、時間の問題……おっと、口が滑ったか」
吐き捨てる声は、嫌でも聞こえる。斥候も忍者も耳が良くなくては務まらない。
戯れる言の葉を紡ぎながら、ひょいと肩を竦める。実年齢を知る者のうち、口さがないものは己をそう呼ぶ。
だから、より年上の卿とも話が合う、ふざけ合えるのかもしれない。
「善かろう。……篝も言った通りだ。ワタシはその条件を呑もう。契約についても確かに聞き及んだ。
その上で、一つ目の問いの回答の是非を聞いておきたい。
……過日の蟲の騒ぎは諸々心得ておられよう貴公の差配と仮定したなら、どうにもおざなりが過ぎていてな。
思い当たる節等あれば、是非伺いたい。
手を離れた駒以外に襲われる節がこの国であるなら、猫ならびに血筋故か?」
弟子としての心境は色々複雑だろう。奴隷という二文字の字面の如く、手酷く扱われているならまだしも。
当の本人としては、その認識がなかった、思える程の懐きぶりであったのだから。平伏する有様も垣間見ればまさしく。
最終的には己が首を縦に振れば、それに従うと。であれば、首を縦に振らない理由はなくなる。
落としどころとしてはこの具合だろう。無理な吹っ掛け方は、次にやや値を下げたものを投げ遣ることで、通り易くなるものだ。
続けて、尋ねておきたかったもう一つの事項の是非について問う。
一瞬、笑みらしく揺らめかせた暗赤を伯爵の方に戻し、見据える。
■ヴァリエール伯爵 > 伯爵がどの程度徹底しているかは、娘の出来を見れば察するに余りある。
生存確認が取れた経緯は企業秘密とするが、そこから足取りを辿るのはそう難しい話ではない。
とある宿に潜伏していると掴んでからは、他所の貴族との会合やら、きな臭い話、動きが続いたからこそ手出しするまで時間を要したというだけで――
「ほう、人は見かけによらないらしい。
私とそう変わらん年に見えるが、異国の者は不老と言うのはあながち嘘では無いのかもしれんな。
……時間の問題なればこそ。猶予があるならば此方のものだ。
口は禍の元だ、シャッテン殿。貴殿の言動の全てが情報の塊であることを忘れぬことだな」
ふざけた口調を咎めず、さして気にした様子もなく涼しい顔で返す。
こう言う点が卿には不評なのだろう。若造が、可愛げが無いとよく言われる。
同意の言葉が返れば、伯爵も首肯を返し――パチンッ!と軽く指を鳴らす。
それと同時に宙に青白い光が瞬き、目の前で布が編まれるが如く、シュルシュルと光の帯が一枚の紙を生成した。
それは、二百年で暗躍を極めたヴァリエール家に伝わる、絶対的な効力を持った契約の魔術である。
魔術によって生成されたこの契約書は、契約が完了、或いは何らかの理由から破棄が認められぬ限り破ることは叶わない。
契約を違反した者は、その命を持って償わせる。これは、術者であっても同じリスクを背負う。
光が収まり出来上がった契約書を手に、席を立ちあがる。
「ああ、その件に関しては私は覚えがない。
見知らぬ蟲を使うくらいなら、良く知る者を使いとして差し向ける。
……思い当たる節と言うのも無い。
これまでにそこの猫がしくじった時に恨みでも買っていれば別だが、それは本人に聞くほうが速かろう。
血筋? ミレーなどそう珍しくもない。襲われることはあっても、恨まれることは無いだろう。
質問は以上かね?」
男の隣を通り過ぎ、言葉を投げてから床に伏せる小柄へと視線を向ける。
「――篝、血判で構わん。それをお前のサインとする。早くしろ」
腰をかがめることもなく、上から見下ろし契約書を上から落とす。
■篝 > 交渉はなったらしい。元主も、師も、命を失わず済んだことに安堵する。
娘は主に名を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げた。
ひらり、ひらりと舞い落ちる契約書を両手で受け止める。
これで縁が切れる。主とも、この屋敷とも、全てが無関係になる。
「……承知、致しました」
娘は契約書を一度胸に抱き、感情を見せぬまま腰の双剣の片割れを抜き、親指に軽く刃を当てて血を流す。
契約書の内容もよく読まないまま、直ぐに済ませろという命に従い指を押し当てるだろう。
人でなしながら、こと、契約において元主はいつも誠実であった。
そう言う面で娘は主のことを信頼していた。
■影時 > 最終的に様々な動向を探り、足取りを辿って察するのは――時間の問題であったろう。
部屋の中での飼い猫、略して飼い猫とするには無理がある。そもそもそのつもりも無かった。
繰り返しになるが、時間の問題ではあったのだ。
にも拘らず、疑念が残る動きがある。此れは何か。整然とした数式にし難い疑問が今も尚、残る。
「ほう? こう見えて顔出しにならないよう気をつけているんだが、いやはや全く。
ははは、その言葉は身に摘まされるなァ。
指し手ならばどうするかなぞ考えて話しているつもりだが、さりとて貝の如く口を噤むわけにもいかぬ」
まあ――聞いたところは聞いた。そう思いつつ、襟元に意識を飛ばす。
偶に見る映像を記録する魔法の宝珠。それの音声版を装束に縫い込んでいるのだ。
若造とは雖も、軽んじない。いざ修羅場においては歳の差が関係しないことは、珍しくもない。
指し手を名乗るのは烏滸がましいと認識しているが、盤上に立つならば誰しもが等しい。平等だ。等価値である。
さて、双方の合意を認めてか、伯爵が指を鳴らして術を紡ぐ。
近しいものならば、今の雇い主に関わる中で恐らく見たことがある。まぁ、止むを得ない措置か。
「成る程、よく分かった。その考え方はワタシと同じで逆に安心できた。
では、此方は此方でこの件に当たらせてもらうとしよう。
其方もよく知らずして生じた事項であるなら、あとはワタシと弟子の問題だ」
一先ず、過日の襲撃がヴァリエール家主導のものではないことが間違いない、と言えることにはなった。
その点を以て善しとする。あれやこれやと要求をつける気はない。
卿には別途報告するが、卿から伯爵への攻勢が起こる場合、それに加わらない旨は、今回の件を詰める際に告げて了解を得ている。
今は既に食客でもない。後ろ暗くない依頼を請ける冒険者だ。冒険者らしい依頼ならば、報酬と引き換えに請けるのみ。
己が傍を通り過ぎ、弟子に血判を求める様を見届け、音もなく立ち上がる。
――これ以上は長居は無用だ。証を記し終えたならば、隠密裏に此処を立ち去らなければならない。