2025/05/20 のログ
> 娘は暗殺者である。その生業として必要な忍ぶ技術は並程度には鍛えられているが、諜報活動はほどほどで、殺すことに技の重きを置いてきた。
主に召し抱えられる前は、生きる為、勝つ為に。雇われてからは、命に従い仕事をした。
爆破や火事は騒ぎを大きくするばかりで暗殺には不向きであり、主は良い顔をあまりしないので日の目を見ることは少なかった。
此度はその許しが出た。仕損じることのないよう、最悪派手にやっても良いと。

『あの爺を殺せずとも、顔を潰せたなら多少は留飲も下がる』と言うのが主の本音であった。
それが駒の犠牲の上で成り立った結果だとしても、所詮は駒だ。捨てるに見合う結果であるならそれで良い。
主が駒に犠牲を強いるまでもなく、従順な駒は主の意図を組み、当然として自ら身を捨てられる。
ある意味の信頼を主が持つほど、駒への調教(教育)は済んでいた。

爆発が起きる少し前、男が返した言葉は娘の動きを鈍らせるのに一役買ったことだろう。
戦いを愉しいと。同種の術を使う者を見られることが愉しいと言う。
捨てるは惜しいとふざけたことを言う。

まったくもって、理解に苦しむ理由だった。
戦場で技比べを楽しむことも、敵の命を惜しむことも、無駄な思考であり、不要な感情であると娘は考える。
こうして思考すること自体も無駄だと断じ、娘が言葉として返すことは終ぞなかった。
表面的な被害を受けた此方と、内の気力と精神への負荷を受けた相手。
消耗が激しいのは――

「…………」

掛けられた言葉、音を立て床に転がる苦無。
そのどちらにも反応を示さず、娘は幽鬼のように立ち上がり、両の目とだけで気配を読み、相手が後ろへ回ると同時に振り返る。

猫の耳は犬の2倍、人間ならば4倍と言われる。
それと同等の優れたミレーの耳も、今は既に機能を失っていた。
音で判断できない弱みが逆に救いとなって、男の奇襲に反応して見せたのだ。

そして、自ら懐へ飛び込むようにして近付き男の背中に腕を回す。
丁度、先に男が分身を使って実演して見せてくれたように。

「――……ご教授、感謝します」

述べたのは感謝の言葉だった。それを最期の言葉として口を閉じる。
今も尚、惜しまれていることを知らないままに、従順に主の言いつけを守り自らを捨てる。

娘の身体からは火薬の香りが漂う。
苦無に切られ開けた胸元には、パチッ、パチッと、瞬く星の如く弾ける導火線が燃えていた。その根元には竹筒が一つ。
相手を捕まえて逃がさず共に爆ぜる。これが、正しい捨て駒の在り方、なのでしょう?
そう問いかけるように、ジッと男を見上げた。

火薬の香りに交じり鼻に届く妙な匂いに、酒に酔ったような感覚を誘われる。心地よさに目を細め、首を傾ぐ。
だが、その匂いの元を探るより、目の前の獲物に視線は向く。

影時 > ――暗殺者も色々ある。

密やかに、静かに刃を振るい、誰にも悟られずに事を成すのが理想と思われるが、さて、その後は?
標的の排除に成功したと仮定した場合、その手先となったものの始末は如何にするか。

露見しない、バレないようにするのは基本。仮に露見した場合、枝葉から幹に至るように首謀者に至るのは避けるようにしたい。
例えば知らぬ存ぜぬ証拠はあるのか言いがかりをつけるのは止めてもらおう、等々。
そうならぬよう、手先を仕込み差し向ける側は、事前に持たせるべき情報を絞るだろう。
同時に用が済めば、死ね等と条件付けをしている場合もある。

そうした手口、思考に男も心当たりがある。大いにある。
そういう風に育てられもしたし、指示されたこともあるではないか。今回は違う――と言い切れる保証がない。
腕利きを使い潰す。切って捨てる。使える手先を失なうことも善しと出来る主である可能性も高い。

「…………まったく」

悪い癖だ。だが、後悔はしない。効率主義成果主義とは真逆の酔狂を嗜んでこその己である。
己は死ぬまで忍びである。今回の敵たる己と同じように、依頼主を守り切ってこそ、請けた依頼を達成できる。
だが、だからと言って、それで良しとするの己の中での帳尻が合わない。
依頼主の生命を守り、なお且つ、己が酔狂を果たしてこそ納得がゆくというものだ。
ここで問題となるのは、種族的な差異も含めた娘の才、能力、そして理解力の高さというものか。

鞄の中に偶然入れていたものが、ひとつある。
かつてシェンヤンに赴いた際に仕入れたものが幾つかあるが、生薬類を利用して調合した嗅ぎ薬だ。
人間にはもちろん影響はないが、マタタビの類を強烈にしたかの如く、酷い酩酊感を与えるもの。
思い付きのままのストックで終わるつもりが、出番があるとは思いもしなかったが――さて、問題は、だ。

「今すぐ学べ、と述べたつもりは無ぇ――が……!」

とても嗅ぎ慣れた臭いが、嗅ぎ薬よりもつんと強烈な匂いとして、男の鼻孔を刺す。
何か、と思うまでもない。飛び込み、背に手を回してくる娘の胸元に見える筒。
起爆までどれほどかかるか。お互いにただで済むか。考えるべくもない。
すぐさま瓶を手放し、遠慮なしに娘の胸元に片手に印を組んだその手を捻じ込みつつ、発動。――ただ構わず水を喚ぶ。
恐らくタイミングとしては、起爆に間に合うか間に合わないか。
だが、どうと溢れ出す水の量と圧は、生じかける火を飲み干し、総身をたっぷりと湿らせることだろう。

> 酸いも甘いも、良いも悪いも、楽も愉も。多くを知りつくした歴戦の忍。
自らの在り方を己で定め、貫くだけの力を持つ強者だけが“選択”と言う権利を持つ。
男にあって娘に無いものの一つだ。

自嘲、或いは己を律して吐かれた言葉は娘には届かないが、頭の傾きをまたほんの少し深くしたかもしれない。
不思議な香りにスンと鼻を鳴らす。
嗅ぎ慣れない匂いだ。媚薬の類とは異なる。これは何だ。と探る中でまんまと術中にはまり、気付けば目の前がくらくらと揺れて酩酊する。心地よいまどろみに誘われ、足は脱力を覚える。

「ん、……」

抱きつけば離すまいと縋りつき、足の力が抜けて行っても腕だけは懸命に巻き付けたまま。
分身の爆破と、己が使う炎で炙られひりつく肌が痛む。
重ねて爆発の衝撃破で骨を軋み、折れてはいないだろうが息をするのも苦しく、煙を吸った喉の痛みと合わされば、ヒューヒューと音も鳴る。
……どれもこれも、これから爆ぜる身にはどうでも良いことだった。

男が巻き込まれまいと抗うなら、服に噛みつき食らいついてでも。
そう思っていたのだが、相手が次にとった行動に娘は眠たげに細めた目を見開いた。

「……? ――っ!?」

無遠慮に胸元に腕をねじ込まれるまでは良い。
想定の内で、竹筒を引き抜こうものなら直ぐにでも衝撃で爆発して、少なくともその片腕を奪う結果となる算段であった。
だが、直接水を浴びせかけられるとは思わず、溺れるかと思う勢いの水に襲われ、胸元で燃えていたそれは勿論、娘の傍で瞬き爆ぜていた火花と尾の先に灯っていた鬼火まで巻き込まれ消えた。
残ったのは、冷や水を浴びせられ酩酊から覚めかけている猫一匹。

「…………冷たい」

しがみ付いていた腕の力も抜けて行き、ずるずるとその場に座り込んでポツリ、と。
涙でも流せたら、さめざめとして見せただろうが、娘はただただ茫然とした様相であった。

影時 > 優れた忍び、忍者の要件は上げるときりがない。
力及ばぬものは直ぐに死ぬ。死して屍を拾われないならまだいい。
半端に力を持ち、辛うじて長らえれてしまえば拾われて腑分けされ、絡繰り仕掛けに組み込むか接ぎ木めいたことにされる。
己が生きてきた忍びの闇、影の闘いとはそういうものであった。
そうした己が武器は何か。修めた武技。術の習熟と原動力となる氣の強さ。
繰り出して見せた分身のような複雑な忍術はそうもいかないが、単純な現象を導くものなら、印は片手でも事足りる。

――それでもなお、つい数瞬前の娘のやり方には久方振りの慄きを覚えたものだ。

そういう手があったということを思い出すのは、鈍っていたと詰られても仕方がない。
この地で弟子とした者には教えていない手口、やり方だからだ。そこまで教える必要がなかったとも言う。
自爆を許容できるとすれば、それは分身まで。術者自身が爆ぜる必要を悟らせる状況に運ばせないように事を運べ、と。
だが、この者は違う。昔の忍び同士の闇の闘いの思い出す手並み、遣り口であった。

「は、ぁ……、ッ、ク。こういう肝の冷え方は、久しぶりだ、ぞ」

水術の印を組み、あとは動員できる氣を構わず叩き込む。対処自体は単純ながらも消費、消耗は重い。
しかし、そうした甲斐はあっただろう。大気中の塵も含み、清らかどころか半ば泥濘じみた中に佇みながら、重く絞り出す。
娘の胸元に突っ込んだ腕で堪能している余裕も、時間もない。
尾と傍で爆ぜ瞬いていた灯と火が消え、ずるずると座り込みながら茫然とした風情に、男もまた腰を落とす。

「…………悪いな」

震える猫耳に囁くのも、一瞬。右手をそっと娘の首の後ろに添え、経絡を認めれば、とん、と。指で突く。
ただそれだけの動作で針先の如く氣を研ぎ澄ませ、注ぎ込むのはその意識を奪うがため。
ここまで遣ってしまえば、遅れに遅れた兵たち、卿の手勢たちも駆けつけるだろう。

此れで大人しくなったとすれば。
下手人を引き渡せ等と騒ぐ前に仕舞った委任状を出して示し、尋問がてら適当な部屋でも借りることにしよう。

血走った者達に嬲り殺しにされるか、犯されるようなことまでは避けたい。
取り敢えず、何か吐き出せるかか否か。恐らくそれも難しいことだろうが。

> 突然の事態に呆然として、数秒の間だが気を抜いてしまった。
男が座り込んだのを黙って眺めてしまうほど、気力も、体力も失せ、使命のことすら頭から消えていて。

「……ぁっ」

聞こえぬ耳に掛かる息。掠れた声一つを漏らし、くすぐったそうに耳が跳ね、ハッと我に返るにも遅すぎた。
男の手が首に触れたかと思えば、軽く、けれど頭の芯を揺らされるような衝撃を受け、そこで意識が途切れる。
主の命を果たせなかった。
言いつけさえ満足に守れなかった。
それを悔い、怯えながら娘は昏睡の渦へ落ちて行く……。

その後に待つ運命は――。

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