2016/11/21 のログ
■クロウ > 遠くで大きな悲鳴が聞こえた。
しかし、特に気に留める者は多くない。
幾人かは脚を留める者もいたが、大抵はすぐにまた歩き出す。
そんないつもの夜の歓楽街。
男はそこに溶け込み、じっと不夜城を見つめている。
しかし、そんな男を見ている者は誰もいない。
誰も。
否、いなくはない。観測者は確かにいる。
多分その誰かだけが、男に気付いている。そんな様子であった。
現実の中に、違和感なく溶け込んだ異物。
異物であるのに違和感はなく、異物感が皆無であるのにそれはどこか現実から浮いている。
誰も、観測者を除く誰一人も、その男を見ないから。
ふと、男が歩き出した。
揚々とした、いかにも海の男らしい歩調。
しかし、であるにも関わらず、それはどこか影を引きずったような異様な歩み。
人の中を、ゆっくり、それでも尚決して人の流れを澱ませずに、一定のペースで男は進む。
ゆっくり、ゆっくりと、決して眠らぬ不夜城の方へ向かって。
■クロウ > ギラギラとした人々の欲望の灯と喧騒の狭間を、ずるずると影が進んでいく。
縫うように、というよりは、まるですり抜けるように淀みなく、一定のペースで男は進む。
歓楽街の喧騒、雑踏に紛れて、足音一つしはしない。
或いは、そこが無人の往来であったとしても、足音が鳴ったかは怪しいのだけれども。
そんな男を、観測者はどこからか見ている。
その背中の遠ざかるのを見つめているのか、或いは、今まさに近づいてきているのか。
何にしても、観測者だけが男を見ている。
ずる、ずる、と、影法師は進む。
いつもの歓楽街。
否、本当にいつもの歓楽街だろうか。
今夜はどこか、ざわついてはいないだろうか。
何が違うという訳ではない。
娼婦も、博徒も、破落戸も、船乗りも、旅人も、何もかも。
いつもと変わらない歓楽街だ。
そびえたつ不夜城も、決して変わらない。
しかし、何かが違う。
いつもより、少し悪酔いをしている者が多くはないだろうか?
いつもより、破落戸の機嫌が悪くはないだろか?
いつもより、娼婦の心身は疼いていないだろうか?
いつもより、野良犬の吼え声が多くはないだろうか?
そんな、そんな些細な違いだ。
違いとも言えない違いの集積。
しかし塵も積もれば、何とやら。
いつもと同じで、しかしいつもと違う夜の歓楽街の大道を、男は進む。
しかしふと、男は立ち止まった。
否、いつのまにか立ち止まっていた。
最初から歩んでなどいなかった気もする。
最初からそこにそうして立っていたような気も、する。
しかし、今まさに立ち止まったような気もする。
確かなのは、そこに男が静止しているという事。
そしてその視線が、観測者へと向けられているという事。
■クロウ > 昏い昏い、深海の蒼。
二つの蒼が、闇よりも昏く、観測者を見つめていた。
口元には薄く笑みを浮かべたその貌は、いかにもといった海の男のそれだ。
平凡と言えば、平凡と斬って捨てられる、そんな容貌。
しかし、観測者の視界の中で、その男以外が急速に色を喪っていく。
世界が立体感を喪い、希薄になり、喧騒はどこか遠く、ぐらりぐらりと世界は揺れ始めて。
酒に酔ったような、そんな感覚。
それでも、男の姿だけははっきりとわかる。
それはそこにいる。
そこにいて、観測者を見ている。
深い深い、深い深い処から、覗き込んできている。
真っ昏な二つの孔から、観測者を覗いている。
それに何がしかの感想を抱いた、その瞬間。
観測者の世界は暗転した。
気付けば、観測者は朝を迎えていた。
どうやら、往来で眠っていたようだ。
昨夜の記憶は曖昧で、酒にでも寄って潰れたのかも知れない。
帰って寝直すか、と、かつての観測者は立ち上がる。
節々痛む身体に鞭打って、軽く伸びをして欠伸をした時、ふと誰かに見られている気がして。
かつての観測者は振り返った。
そこには、誰もいやしない。
かつての観測者は、薄気味悪そうに身震いを一つしてから歩き出す。
そうして、かつての観測者はその場を歩み去った。
後には、その背中を見送る一人の男だけが残された。
そして男はゆっくりと、それを観測する新たな観測者の方へと視線を巡らせたのだった。
ご案内:「港湾都市歓楽街」からクロウさんが去りました。