2018/08/10 のログ
ご案内:「王都マグメール 貧民地区」にジュリアンナさんが現れました。
ジュリアンナ > 今日も今日とて、己を育ててくれた修道院で、炊き出しの手伝いをしていた。

食欲が満たされれば、次は他の欲が頭を擡げる――――というのは、
結局、人間の業のようなもの、なのかも知れない。
炊事場所として使っているのは孤児院の側の台所であり、空になった寸胴鍋を両手で抱え、
己がそちらへ向かおうとしたところで――――女性の、くぐもった悲鳴が聞こえた。

鬱蒼と生い茂る灌木の茂みに、シスターのものと思しき服の切れ端が揺れている。
その奥に居るのは、恐らくは数人の男たちと――――シスターが、一人か。
何が行われようとしているかなんて、見に行かなくても分かる。

「―――――ぁ、………」

今までの己なら、きっと躊躇わなかった。
けれど今、何故だか声が出なくて、足が動かなくて―――――
何かの布が引き裂かれる音、男たちの笑い声、シスターの悲鳴。
その、ひとつひとつが胸を衝くたびに、硬直はますます酷くなるようだった。

「た、すけに……入ら、なきゃ」

呟く声は、我ながら嫌になるぐらい震えていた。

ご案内:「王都マグメール 貧民地区」にエンデさんが現れました。
エンデ > 「どうかしたのかね――?」

娘の震えた声とは対照的に、落ち着いた声音が彼女の背後から投げかけられた。
今日の手伝いとして臨時にやってきていた医師の声とは知れるだろうか。
この季節にも拘わらずに肌を出さず、顔さえ見せないが
やってきた人間やちょっとした怪我をした修道女たちの治療を行っていた。
それがひと段落して、休憩がてら少し散策をと思って通りがかったところだ。
彼女の様子、そして、その視線の先で起こっていることを知ってか知らずか。

「何か、あったのかい?」

酷く落ち着いた声音。仮面越しのそれを投げかけて
そして歩を進めて近付いてくるだろう。
焦りも、緊迫感もない足取り。仮面の衣服の下にそれ等の感情をすべて隠したように。

ジュリアンナ > 突然、背後から掛けられた声に、危うく悲鳴を上げるところだった。
大きな鍋を抱えたまま、びくん、と肩を震わせて、弾かれたように振り返る。

「………せ、…先、生……」

此の季節には、一種異様な風体ではあるけれど――――医師だと紹介された相手、
先刻から実際に治療行為に従事してくれていたから、己の中では身元の確かな相手、という認識である。
茂みの向こうに、何人の人物が居るかは分からないけれど、
―――――とにかく、信頼のおける、大人の男の人ならば。
きっと何とかしてくれる筈、と、其処まで思考が至るには、ほんの数秒で事足りた。

「先生……、お願い、助けて、ください……!」

切迫した表情で仮面の男を仰ぎ見る眼差しは縋るように、
両腕が塞がっていなければ、きっと本当に両手で縋りついていただろう。
目顔で茂みの向こうを示した其の瞬間、タイミング良く其の奥から、
また、
嗚咽交じりの悲痛な声が聞こえてきた。
其れに男たちの楽しげな声が被さってくれば――――もう、説明の必要も無いだろう。

エンデ > 「ああ、失礼。」

――驚かせるつもりはなかったんだ。
と続きかけた言葉を言いかけて、止める。
縋るようにこちらを見る青紫色の視線。表情。高まった心拍数。
それが現状を物語っていた。そして、次いだ言葉と、響いた悲鳴。
ああ、なるほど――と思う。

「わかった。下がっていたまえ。
 ええと――確か、ジュリアンナだったかな? もう何も心配はいらないよ。
 ただ、怖いのならば目を閉じていなさい――?もしくは鍋を片付けてくるといい」

柔らかく零れ落ちる声音が、皆と共に紹介された彼女の名前を呼ぶ。
仮面の中心を走る赤い十字のスリットの下に表情を隠しながら頷く。
少しだけ、彼女を観察するような間を置いて。
そして、迷いも気負いもない足取りで、茂みの方へと向かって歩いていく。
そして――

「君たち――。」

次いで響いた声は静かな色合い。止めろ、という訳でも、脅す訳でもない。
ただ、茂みの中の彼らに呼び掛ける声音。
けれど、その奥底から、ぞろりと何かが這い出てきそうな不吉な色合いを帯びて。

ジュリアンナ > わかった、と言って貰えた時、己がどれだけほっとしたことか。
此れ以上の説明なんてしたくなかった、察して、そして頷いて欲しかった。
だから、明らかに肩からは幾らか力が抜けて、蒼褪めていた顔にも、
僅かに赤みが戻ってくる。
けれど―――――

「こ、……わく、なんて、ありませ、ん、それに、
 何人、居るか分からない、のに、あたしだけ……、」

己が咄嗟に縋りついてしまったばかりに、この医師が怪我をするようなことがあったら、
と思えば、素直に、じゃああちらに行っています、とは言えなかった。
其れでも、――――刹那、此方を『見て』いるように感じた、医師の姿に。
あるいは其の仮面の奥に、何か―――――説明し難い『何か』を感じて、
言い募ろうとした言葉は途中で止まってしまう。

茂みの方へ向かう其の背を見つめ、ほんの少し迷ったけれど。
結局は医師の身を、其れに勿論シスターの身を、案ずる気持ちが勝った。
寸胴鍋を抱えたまま、という、何とも間抜けな格好ではあったが、
今度はそっと、忍び足で――――彼の背後、数歩のところへ。

茂みの中では、着衣を引き剥がれ、あられもない体勢に押さえ込まれたシスターが、
数人の男たちに辱められようとしていた。
鈍感な者は医師に苛々と反抗的な眼差しを向けるだろうし、
先刻、己が感じたと同じ『何か』を感じた者も、訝しみながらも未だ、
女を犯す楽しみを諦める気は無い様子で――――。

エンデ > もう一度、ゆっくりと頷く。
仮面の下の表情はやっぱり隠れて見えない。
けれども、彼女にかける言葉は柔らかく、落ち着いた色合いで。

「君はとても勇敢な娘だね。ジュリアンナ。
 けれど、嘘はよくない。それに、危ないよ。」

称賛、そして警告めいた言葉の時も色合いは変わらない。
それを残したときに、仮面に走る赤が強まった気がした。
「そして、敏感な娘だ」その言葉は言わない侭に、視線を外す。
向かう先の茂みにあるのは辱められようとしているシスターと男達。
警告ともいえない警告にはいそうですかと従うするものはいなかった。
それに―――黒い医師は、少しだけ苦笑したようだった。

「やはり駄目か。まあ、いい。
 止めてくれないか?私も、患者を増やすつもりはあまりないのでね。」

此方を見ている男たちの視線はどうでもいい。
背後の娘の視線を感じながら、言葉をかける。
その間にも、徐々に強まっていくのは気配。まるでここにいてはいけない何かが現れようとするようなそれ。
そして、黒い男はゆっくりと右の手袋を外す――刹那

ぐじり――ごぶり――。

そんな、粘着質な音が響いた。手首の下の右手が一瞬溶けて、雫が滴るように見えるだろうか。
地面に落ちたそれは、たちまち立ち上がる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ――。
それは喩えるなら、黒い粘液のようなもので構成された大きな狼。
牙を剥き、だらだらと涎を垂らしながら医師の周りに立ち上がって、赤く染まった瞳で男たちを睨み付ける。

「―――さて、どうする?」

仮面の奥からは声が響く。静かで静かな、けれども先ほど少女に向けたのとは違う。
まるで人を飲み込むのを待ち構えている深い虚のような声。

ジュリアンナ > 柔らかく耳朶に届く医師の言葉に、己は深く眉根を寄せて頭を振る。
自覚はあるのだ、己はただの向こう見ずで、考え無しで――――だからきっと、
医師の忠告に従うのが、此の場では正解なのだ。
なのに―――――どうしても、出来なかった。
其の選択を愚かだったと、後悔することになろうとも――――。

結局のところ、集団で女一人を組み伏せて嬲りものにしようとするような男たちである。
相手がたった一人とみれば、数の力に物を言わせて黙らせてしまえば良い、ぐらいに考えて、
獲物であるシスターから手を離さずにいたのだろうが―――――

「―――――っ、っ………!」

ひゅ、と鋭く喉を鳴らしたが、今度もまた、辛うじて声を出すのは堪えた。
手袋を外した医師の右手が、ぐずりと溶けて行くような――――
どす黒い『何か』が、ぼたり、ぼたり、滴り落ちた瞬間に、
そのひとつひとつが姿を変える。
紅い瞳の、精悍な、けれど禍々しい獣が、一匹、また一匹と。

一拍措いて其の場に響き渡った悲鳴は、ざらついて聞き苦しい男たちのもの。
口々に『化け物』などと喚きながら、蜘蛛の子でも散らしたように逃げ出して行く。
もっとも、幾人かは腰を抜かして、無様に這いずりながらの遁走だったが。

残されたシスターはと言えば、恐怖の連続に耐え切れず、どうやら気を失っている様子。
彼女ほどか弱くはない所為か、其れとも、あまりの恐怖に強張り過ぎて、
逆に意識を手放せないのか―――――
己は、零れ落ちんばかりに見開いた瞳に、ただ、黒い男の姿を映して。
ありがとうございました、と、言わなければいけないのに――――

どうしても、声が、出てこなかった。
微動だにせず、抱えた鍋を取り落とさないのが不思議なほど凍りついて。

エンデ > きっと、娘は後悔するだろう。それ故の警告。
けれど彼女は自分の勇気、あるいは矜持を優先した。
それを非難することは誰にもできはしないだろう。
その結果が、今の光景だ。

――ごぼ

唸り声の代わりに湿った音を立てる異形の獣たち。
それに響くのは悲鳴を抑える声と、男たちの悲鳴。
蜘蛛の子を散らすように、という形容が相応しいだろう。
次々と走って逃げていく彼ら。狼はそれを追いかけはしない。
ただ、涎を垂らしながらその場にあるだけ。主からの命令を待っているのか。
それとも、自分たちの獲物は彼らではないと、そう言っているのか。

「良かった――これでもう、大丈夫だ。」

振り向かない侭に、黒い仮面の下で穏やかな言葉が紡ぎ出される。
まるで日常的な、柔らかな柔らかな響きのそれ。
そして、まずは気絶したシスターの様子を診よう。
傍らに跪いて、脈を取り、呼吸を確認しよう。
ゆっくりゆっくりとした所作。その周りを狼たちが囲んで
そして、赤い視線を娘に向ける。凍り付いたその様を。
ぎらぎらと輝く赤い瞳で見つめている。

「だから、言っただろう?危ないよ――と。」

そこに、医師の声が重なる。ただ、柔らかく響いたそれ。
礼を求めるでもなく、安心を与えるでもない声。姿はまだシスターの傍を離れない。
衣服をできる限り直して、木陰に移している姿。
さながら、逃げるのならば今の内、とでも言っているようで。

ジュリアンナ > 修道院長に紹介されて顔を合わせた際、姿かたちにこそ威圧感を覚えたが、
相手は己にとって、信頼に値する優秀な医師、で、あったのだ。
其の認識に、間違いは無かった筈なのに―――――
『助けて』と縋った己に、医師は応えてくれた、のに。
なのにどうして、―――――息も出来なくなるぐらい、鼓動が早鐘を打つのだろう。
どうしてこんなに、足ががくがくと―――――

医師の手から生まれ出でた闇の獣に、あるいは其れらを生み出した、
黒衣の医師、其の人自身に。
魅入られたように動けず、声も発せずにいる己の前で、
シスターの介抱をする男は、こんな状況でもやはり『医師』だった。
其の手は労わりをもってシスターの様子を丹念に確かめ、
乱れた着衣を可能な限り戻して、木陰に寝かせている。
彼の足許で、此方を凝っと―――――そう、愚かな己を断罪するように、
底光りのする紅い眼を向けてくる獣たちの姿さえ、無ければ。
まったく普通の、己が望んだ光景であったのに―――――

「―――――ぁ、………」

危ない―――――という言葉の意味が掴めない。
掴めない、振り、をしたかった、というのが、正確なところかも知れないが。
寸胴鍋を抱えた両掌が、いつの間にか、じっとりと汗ばんでいるのが分かる。
己が一体『だれ』に―――――『なに』に、助けを求めてしまったのか。
そして、己は一体、今、『ナニモノ』と、対峙しようとしているのか。
恐怖と、混乱と―――――諸々の感情が綯い交ぜになった顔で、
己は獣たちを見、そして、医師の姿を見る。

あの男たちのように、一目散に逃げてしまえば良いのだろうか。
悲鳴を上げて、人を呼べば良いのだろうか。
けれど―――――動かない、動けない。
彼が此方を振り返った時、どんな顔をすれば良いか、何を言えば良いのか、
何ひとつ、分からないままに。

エンデ > 傍らに侍るのは黒い獣たち。
いつの間にか、右手には黒い革手袋が戻っている。
その手で、シスターの外傷を確認し、懐から取り出した布を枕に木陰に寝かせる。
効率の良い。何百回、何千回と繰り返してきたような所作。
どれほどの時間がかかったことだろう。
作業が終わる。そして、医師が立ち上がる。
そして、ゆっくりと彼女の方へと振り返る。
黒い仮面の中心、赤いスリットがその表情も、内心も隠してしまっている。

「もう心配は要らない。彼女に関しては、無事だ。」

声が響く。シスターの無事を知らせる言葉。
まるでつい数刻前まで患者に、その家族に告げていたような口調。
そして最初に動き出すのは狼達。彼女の足元に向けて酷くゆっくり、歩き出す。
それを従えるように、娘に向けて歩き出す足。
一歩、二歩――迷いのないそれが、動かない、あるいは動けない娘に向かう。

「ジュリアンナ――。」

何か口にすることはない。問いも、宣告もなしに彼女の名前を呼ぶ声。
仮面に隠された声音は柔らかく聞こえるか。無機質に聞こえるか。
あるいは、深淵から響くように聞こえてしまうか。
同時に、その手指が伸びていく。黒革に包まれた右手指。
それが、そのまま、彼女の頬に触れようとするだろう。
柔らかく撫でるように。あるいは、柔らかく捕らえてしまうように。

ジュリアンナ > 先刻、垣間見た怪我人への対応と、寸分違わぬ手際の良さ。
然程時間は掛からなかったのだろうけれど、永遠にも似て長く感じられた。
其れでも――――何故か、逃げ出せなかった。
闇色の獣たちが此方を凝視しているから、というだけの理由では無い。
頭の何処かで、きっと生き物としての本能が、
『医師が振り返る前に、此処から逃げろ』と、繰り返し告げていたのに。

振り返った医師の顔は――――ああ、そう言えば仮面をつけていたのだった。
一見したところでは、先刻までと何も変わらない。
ただ、見る側の―――――己の動揺が、恐怖が、相手を得体の知れないものに見せているだけだ。
礼を――――そう、手を貸してくれた礼を、言わなければ。

がらん、と音を立てて、抱えていた鍋が落ちて転がる。
円筒形に近い其れはごろごろと、己の斜め後ろ辺りへ転がって止まり。
拾わなければ、と思うよりも―――――近づいてくる医師から、其の『ひと』から、
目を離してはいけない、という、強迫観念めいたものに支配されて。
木偶のように立ち尽くしたまま、削られて行く距離を受け容れるより術が無く。

―――――仮面の奥から、己の名を呼ぶ声がした。
獣たちを苦も無く従えた、男の声が―――――何故か、己が四肢を絡め取り、
思考を根こそぎ奪い去る、黒い縛鎖のように。
脅迫も恫喝も、何も無かったのに――――伸ばされ、己の頬へ触れる手指さえ、
柔らかく、ほのかにあたたかい、のに。
立ち竦む己の背筋へ、ぞくり、と一度、大きく震えが駆け抜けた。

「―――――……せ、ん……せ、い…………」

今や己を取り囲むように佇んでいる、この獣たちは何なのですか。
貴方は、そもそも『何』なのですか。
そして、己は―――――どう、なってしまうの、ですか。
聞きたいことは山程あった筈だけれど、どれも声にはならなかった。
震える声で、か細く、たったひと言、彼を呼んで。
其れだけのことなのに、何故か、ひどく重大な契約を交わしたかのような―――――
触れられたところから、今度こそ、意識を摘み取られてしまいそうな。
迫り来る夜の帳よりも、ずっと深い闇のなかへ―――――取り込まれて、しまいそうな。
其れはただの錯覚か、其れとも―――――。

エンデ > 仮面は表情を隠す。その下の思考も、感情も隠す。
ただ、十字に刻まれたスリットから零れる赤い光が彼女を見つめていた。
否、それはひょっとすれば見つめられているという錯覚を与えるだけのものかも知れないけど。
そして、黒い男と黒い狼が娘に近付いてくる。
落ち着いた穏やかな歩調。まるで昼下がりに愛犬を散歩させるようなそれ。

がらん―――。

混じるのは寸胴鍋が落ちてしまう音。
転がっていくそれを見る者は誰もいない。
青紫の娘の瞳は、此方へ向けられている。狼の赤も、仮面も赤も娘に向けられている。
だから、それはただ、二人の間にある障害物が消えた程度のこと。
だから、なんの抵抗もなく伸ばした指先が、娘の頬に触れる。
黒革の感触。その内側の手指の触感が、きめ細かな白い肌を撫でる。
じわりと熱を伝えるの感触。
触れたところからまるで彼女の内側まで覗かれるようにさえ錯覚してしまうか。
ぞくり、と震える彼女の触感を感じれば、微か、仮面の奥で吐息が零れた。

「………………」

言葉は返さない。自分を呼ぶ娘の声に、言葉では返さない。
ただ、仮面が呼ばれた名に頷いてみせた。
彼女がどうなってしまうのか。彼女をどうしてしまうのか語ることはない。
彼女の疑問。それへの解答は言葉ではないというように。
ただ、二人の周りを狼たちが囲んで、そしてもう片方の手が伸びる。
左手、娘の肩を撫で滑って、そのまま引き寄せよう。
両腕に抱き寄せれば、もう逃がさない。逃げられない。
「行こうか――。」言葉にならない言葉。触れた手指から娘の身体に囁きかけるように。
彼女がそれに従うならば、黒に包まれた二人の姿はそこから歩きはじめるだろう。

――そして、姿の見えない二人を探しに来たものがいれば見つけるのは転がる寸胴鍋と気絶したシスターだけ、だろうか。

ジュリアンナ > 見つめられている、と感じるのは、己が既に囚われているからかも知れない。
逃れられない、と思ってしまうのは――――もしかしたら何もかも気の所為で、
今、此の状態からであっても、日常に戻ることだって出来る、のかも知れない。
きっと此の男は、逃げ出した己を追わないだろう。
足許に居る獣たちだって―――――。

けれど、互いの間を遮るものは、もう何も無くなってしまった。
男の掌が触れた頬から、漣のように広がる微かな震えが、
己の中に息衝く『何か』を探し当て、暴き立て、引き摺り出して掌握する、
静かな、然し有無を言わさぬ力を浸透させて。

もう一方の手が、己の肩に触れる。
柔らかく滑り、背中へ回って―――――抱き寄せられて、また、背筋が戦慄いたけれど。
命令でも無く、脅しでも無く、ただ、誘うばかりの『声』に、
己ももはや、声も無く頷き返した。
そうするのが当然なのだと―――――従うのが、正しいことなのだ、と。

踏み出した足が、地面を捉えている感覚が無い。
確かなものは、ただ、己を導く男の存在だけで―――――
やがて、二人の姿は宵闇に飲まれたように消えるのだろう。
転がった寸胴鍋と、手当てを施されたシスターの姿だけを其の場へ残して。
跳ねっ返りの娘の姿も、黒衣の医師の姿も、何処を探しても見つからなかった、という―――――。

ご案内:「王都マグメール 貧民地区」からジュリアンナさんが去りました。
ご案内:「王都マグメール 貧民地区」からエンデさんが去りました。
ご案内:「王都マグメール 貧民地区・廃屋街」にブレイドさんが現れました。
ブレイド > 貧民地区の少しはずれ、王都の腐臭を濃く臭わせるこの地域。
自分の暮らす廃屋のある場所よりも更に奥まった区画。
このあたりには炊き出しすらこない。
だからこそ、今の時期は逆に過ごしやすくもある。自分にとっては。
炊き出し目当てにこのあたりからは人が減ることもあって、とても静かだ。
炊き出しがこないということは、被害を受ける修道女の姿を見なくてもすむということで…
近所にくる炊き出しが毎日のように襲われてるようでは、やかましくて眠るに眠れない。

「ほんと、ろくでもねー…」

タダ飯くばってくれるのはありがたいが…これでは恩恵を受けるどころの騒ぎじゃない。

ブレイド > 夜風にさらされつつも、人気のない通りを歩く。
今日もまたこの街のそこらで同じようなことが起こっているのだろう。
胸糞悪い。

この街のろくでもなさは知っていたが、アンアンパンパンやかましくて眠れないという
間接的な被害をうけるのは流石に想定外。
悲鳴も嬌声も届かないこのあたりであれば…少しはまともに眠れるだろう。